第17話「エレナの秘密」
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秋の雨が、三日続いていた。
屋敷の中は薄暗く、廊下に蝋燭が灯されている。グレンは領務で留守。セドリックはブレイ教官との稽古に出ている。雨の日でも休まない兄の剣術修行は、最近ではブレイ教官の方が根負けしかけているとエレナが笑っていた。
レインは書庫にいた。
古代語の読解が、新しい段階に入っていた。基礎的な碑文はほぼ読めるようになり、今はヴァルターの書庫にあった古代の記録断片に挑んでいる。内容は——大崩壊以前の日常記録。ある都市の行政官が記した穀物の収量報告と、星脈を用いた灌漑設備の稼働状況。
七百年前の人間も、穀物の出来を気にしていた。当たり前のことだが、古代の文字で書かれた農業報告を読んでいると、この文明が「伝説」ではなく「現実」だったことを実感する。
雨音が窓を叩く。ふと、背後に気配を感じた。
「レイン」
振り返ると、エレナが書庫の入口に立っていた。手に茶器を持っている。
「お茶を持ってきたわ。少し休みなさい」
「ありがとうございます」
エレナが隣に座った。書庫の窓から見える中庭は、雨に濡れて色が深い。石壁に這う蔦の葉が雨粒を弾いている。
「レイン。あなた、最近よくここにいるわね」
「古代語の文献が面白くて」
「そう。——お母さんにも読めたらいいのだけど」
エレナが茶碗を両手で包んだ。その指が細いことに、レインは改めて気づいた。貴族の女性の手。しかし爪の先が少しだけ荒れている。台所仕事をする手だ。アルヴェス家は使用人が少なく、エレナ自身が料理や繕い物をすることが多い。
「お母さん」
「なに?」
「メルティア家のことを、聞いてもいいですか」
エレナの手が、一瞬だけ止まった。
レインが母の実家について知っていることは少ない。メルティア家は南部の地方領主で、エレナはその次女として生まれた。グレンとの結婚は——政略結婚だとヴァルターが以前ほのめかしていた。
エレナは茶碗を膝に置き、窓の外を見た。
「……何が知りたいの?」
「なぜ父上と結婚されたのですか」
直接的な問いだった。前世の蓮なら、もっと迂回した訊き方をしただろう。しかしレインの口からは、まっすぐに出た。
エレナが笑った。困ったような、しかし苦くはない笑い。
「お母さんはね、メルティア家の次女だったの。姉が家を継ぐから、私は——どこかに嫁に出される予定だった。長女は跡取り。次女は外交の駒。そういう家だったのよ」
「政略結婚」
「そう。メルティア家は南部の領主でね。ヴェルデ諸部族連邦との境界に近い、山がちの土地。鉱物資源はあるけれど、農地は少なくて。——央域に影響力を広げたいと、父はずっと考えていたの」
南部の領主。ヴェルデとの境界。レインの頭の中に、世界地図の一角が浮かんだ。ファルネーゼ連合王国の南端は、広大な森林地帯を擁するヴェルデ諸部族連邦と接している。
「辺境の中位貴族アルヴェス家との縁談が来た時、父はすぐに承諾したわ。メルティア家にとっては、央域に足がかりを得る好機だったから」
エレナの声は淡々としていた。しかし「外交の駒」という言葉を口にした時、唇の端がかすかに引き結ばれた。
「最初にグレンに会った時、正直に言うとね——頼りないなあ、と思ったわ」
「……」
「メルティアの男たちは、もっと鋭かった。政治の駆け引きに長けていて、言葉の裏を読むのが上手で。グレンはそういうのが全然できない人で」
エレナが茶を一口飲んだ。
「でもね、レイン。お父さんは——嘘をつかなかった」
その一言に、力がこもった。
「政略結婚の挨拶の席で、グレンは私に言ったの。『あなたの家のことも、この結婚の理由も、全部知っています。でも、俺は——あなたを幸せにしたいと思っています。不器用ですが』って」
エレナが笑った。今度は柔らかい笑みだった。
「ばかだなあ、と思った。政略結婚の席で、そんなことを言う人がいるなんて。メルティアの親族は苦笑していたわ。でもね——」
エレナの目が、窓の外から戻った。レインをまっすぐに見ている。
「嘘じゃなかった。あの人の目を見て、分かったの。この人は本気で言っている、って。——十五年経った今も、あの目は変わっていないわ」
レインは黙って聞いていた。
嘘をつかない人間。秋の市場を歩いた時に見た、農夫たちに囲まれるグレンの姿が重なった。ベルタの穀物店の前で笑う父。排水路の修理を約束する父。あの信頼は——一朝一夕で築かれたものではない。嘘をつかない人間であり続けることの、十五年の積み重ねの結果だ。
「メルティアの実家とは、今も交流があるのですか」
「年に一度、手紙を出すくらいね。姉は家を継いで忙しいし。——でも、嫁いだことは後悔していないわ。一度もね」
「それが——嘘をつかない人間が、どれだけ珍しいか。大人になると分かるのよ」
エレナがレインを見た。
「あなたは賢い子ね、レイン。何でも見抜いてしまう。でもね——」
母の手がレインの頬に触れた。温かい掌。
「賢いことと、嘘をつかないことは、違うのよ。賢い人は嘘が上手い。嘘が上手い人は、いつか一人になる。お父さんが一人にならないのは——賢くないからじゃない。嘘をつかないからよ」
レインの胸を、何かが貫いた。
——前世の俺は、嘘が上手かった。
交渉では嘘が武器だった。数字を操作し、言葉を飾り、相手の期待を誘導する。それが「仕事」だった。そして——妻にも嘘をついた。「大丈夫、来週は早く帰る」「今度の休みは一緒に過ごそう」。一つも守らなかった約束。
鷹司蓮は嘘つきだった。そして——一人で死んだ。
「お母さん」
「なに?」
「僕も——嘘をつかない人間になれますか」
声が揺れていた。九歳の声で、しかしその問いは——四十七年間の嘘の上に立っている。
エレナはしばらく黙っていた。それから、レインの銀の髪をそっと撫でた。
「なれるわよ。——だって、あなたは今、嘘をついていないもの」
その言葉が、胸の奥に沁みた。
エレナが立ち上がり、茶器を片付けようとした。レインは母の背中を見つめていた。雨の書庫に、静かな時間が流れている。
「お母さん」
「まだあるの?」
振り返ったエレナの顔は、微笑んでいた。
「あなたがどんな子でも、お母さんはあなたの味方よ。——たとえ世界中が敵になっても」
何気なく言った言葉のように聞こえた。しかしその声には、静かな覚悟が混じっていた。メルティア家の次女として政略の世界を知り、辺境で夫と子を守ってきた女性の——覚悟が。
レインは頷いた。声は出なかった。
雨はまだ降り続いていた。書庫の窓を叩く雨音の向こうに、遠くの丘が霞んでいる。エレナの丘。あの丘から見る夕焼けが好きだと、母は言っていた。
——この人を、守りたい。
セドリックに対して浮かんだのと同じ思い。しかし今回は——もっと深く、もっと切実に。この母の笑顔を、この声を、この温もりを。失いたくない。
その思いが、やがて嵐の中で試されることを——レインはまだ知らなかった。
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