第16話「母の歌」
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九歳の夏の夜。
風が止んでいた。窓の外に二つの月が浮かんでいる。大きな青白い月と、小さな赤みがかった月。星脈の光が空の端をうっすらと照らし、月の輪郭を際立たせていた。
レインは自室の机に向かい、古代語の文法書を読んでいた。ヴァルターの書庫から借りてきた対訳碑文の写しと交互に見比べながら、動詞の活用パターンを整理している。古代標準語の動詞は、現代ファルネーゼ語と比べて活用の種類が三倍ある。時制だけでなく、話者の確信度を動詞の語尾で示す仕組みがある。推量、断言、願望——それぞれに異なる活用形。
面白い。この言語を作った文明は、「何を言うか」だけでなく「どれくらい確かか」を文法に組み込んでいた。合理的な設計だ。前世の日本語には、こうした機能は文法レベルでは存在しない。
ノートに書き写した活用表を見直す。この半年で、碑文の簡単な文章なら読めるようになった。ヴァルターが「二十年かけた」と言った古代語の解読を、レインは一年足らずで基礎段階まで到達しつつある。前世の語学習得の要領がそのまま活きていた。
しかし今夜は、どこか集中が途切れる。夏の夜の空気が妙に重い。虫の声が遠くで鳴っている。窓から入る微風にも星脈の揺らぎは感じられず、ただ蒸し暑さだけが肌にまとわりつく。
そんな時、廊下から声が聞こえた。
歌だった。
エレナの歌声。低く、穏やかな旋律が石の廊下を伝ってくる。セドリックが小さい頃に歌っていた子守唄とは違う。もっとゆったりとした、大人の歌。歌詞はファルネーゼ標準語だが、古い言い回しが混じっている。
レインはペンを置いた。
立ち上がり、部屋を出た。廊下を歩くつもりはなかった。ただ歌声が聞こえる方に、足が向いた。
エレナは、台所の隣にある小さな居間にいた。
窓際に置かれた椅子に腰掛け、膝の上に縫い物を広げている。針を動かしながら、口ずさんでいる。蝋燭の光がエレナの銀の髪を淡く照らしていた。レインと同じ銀の髪。夜の光の中では、白に近い色をしている。
レインは入口に立ったまま、動けなかった。
歌声が、体に染み込んでくる。意味のある言葉としてではなく、温度のある振動として。胸の奥のどこかが——共鳴している。
——この感覚は、なんだ。
星脈を吸収した時の感覚に似ている。しかし星脈は地中から来る。これは——人から来ている。
エレナが顔を上げた。
「あら、レイン。起きていたの」
「……歌が聞こえたので」
「邪魔だった?」
「いいえ」
エレナが微笑んだ。「入っていらっしゃい。お茶を淹れましょうか」
レインは椅子に座った。エレナが茶を用意する間、居間の中を見回した。棚には家族の記念品が並んでいる。セドリックが幼い頃に作った木彫りの馬。グレンがエレナに贈った小さな石の飾り。そして——レインが三歳の時に描いた、二つの月の絵。
「あれ、まだ飾ってあったんですか」
「当たり前よ。レインの初めての絵だもの」
三歳の時の絵は、正直に言って下手だった。しかしエレナはそれを——六年間、ずっと飾っている。
あの三歳の頃、前世の記憶がすべて蘇った直後の絵だ。混乱の中で描いたもの。窓から見えた二つの月を、震える手で紙に写した。「この世界には月が二つある」——その事実を確認するために描いた絵。それをエレナは「レインの初めての絵」として、六年間大切にしている。
茶碗を受け取りながら、レインは訊いた。
「さっきの歌。あれはどこの歌ですか」
「お母さんの実家の歌よ。メルティアの田舎ではね、秋の収穫祭の夜に、女たちが歌うの。豊穣を祈る歌。——お母さんの母、あなたのお祖母ちゃんがよく歌っていたわ」
「聞いたことがありませんでした」
「最近はあまり歌わなかったからね。でも今日は——なんとなく、歌いたくなったの」
エレナが縫い物を膝に戻した。レインが見ると、それはセドリックの上着だった。肘が擦り切れている。剣術の稽古のせいだろう。
「お母さん」
「なに?」
「もう一度、歌ってくれますか」
声が出た後に、驚いた。自分が何を言ったのか、一瞬分からなかった。
——何を言っている。
九歳の子供が母に歌をねだる。それ自体は不自然ではない。しかしレインの中身は四十七歳の男だ。母に歌ってもらうことを「ねだる」など、前世の鷹司蓮には考えられない。甘えだ。非合理的だ。意味がない。
しかし——口が先に動いた。頭が止めるより早く。
エレナは少し驚いた顔をして、それから——柔らかく笑った。
「珍しいわね、レイン。あなたがそういうこと言うの」
歌が始まった。
さっきと同じ旋律。しかし今度は——レインの目の前で、レインのために歌っている。蝋燭の炎が揺れる。エレナの声が居間を満たしていく。窓の外の二つの月が、静かに空を渡っていく。
レインは目を閉じた。
前世の母は、レインが五歳の時に亡くなった。記憶はほとんどない。母親に歌を歌ってもらった記憶は——ない。鷹司蓮の四十七年間に、「母の歌」は存在しなかった。
今、初めて——二つの人生を通じて初めて——母の歌を聞いている。
胸が熱い。理由が分からない。涙が出そうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。これは何だ。悲しいのか。嬉しいのか。どちらでもないのか。
歌が終わった。静寂が戻る。蝋燭の芯がぱちりと鳴った。
レインは目を開けた。エレナの顔を見上げた。母は穏やかな顔でレインを見ていた。その目には、何も問い詰めるような色はなかった。ただ——そこにいる子供を、見ている。
「……お母さん」
「なに?」
「もう少しだけ」
声が震えていた。九歳の声で、しかし——その声の中に、四十七年分の渇きがあった。
エレナは何も言わなかった。ただ、レインの隣に移り、そっと髪を撫でた。銀の髪を、細い指で梳く。
「あなたの灰色の髪、お母さんに似てきたわね」
「……」
「大きくなったわ、レイン」
もう一度、歌が始まった。今度はエレナの手がレインの頭の上にある。温かい掌。規則的に髪を撫でる動き。歌声が体に沁みてくる。
——これは依存だ。
頭が警告する。四十七歳の男が、九歳の体で母親に甘えている。非合理的だ。意味がない。前世のプライドが、全力で抵抗している。
——しかし。
この手を、この声を、手放したくない。
それが「甘え」であっても。非合理的であっても。意味がなくても。この温もりだけは——今の自分に必要なものだと、体が知っている。
頭ではなく、体が。
いつの間にか、目から一筋だけ涙が流れていた。エレナはそれに気づいただろう。しかし何も言わなかった。ただ歌い続けた。
夜が更けていく。蝋燭が短くなる。二つの月が窓の向こうを渡っていく。
どれくらい時間が経ったか分からない。気づいた時には、エレナの歌は終わっていた。レインの頭は母の膝の上にあった。いつの間にか、横になっていたらしい。九歳の体は小さく、エレナの膝にすっぽりと収まっていた。
「寝ちゃったのかと思った」
エレナが小さく笑った。
「……起きていました」
「嘘ね。少し寝てたわよ」
レインは否定しなかった。起き上がろうとして——もう少しだけ、と体が動かなかった。
「お母さん」
「なに?」
「……ありがとうございます」
何に対する礼なのか、自分でも分からなかった。歌に対してか。髪を撫でてくれたことに対してか。それとも——ここにいてくれることに対してか。
エレナは何も訊かなかった。ただ「おやすみ、レイン」と言って、もう一度だけ頭を撫でた。
自室に戻る廊下は暗かった。しかし不思議と、怖くはなかった。体の中に、歌の残響がまだあった。温もりが、まだあった。
体の中に、歌の旋律がまだ鳴っていた。メルティアの収穫祭の歌。いつか、この歌を忘れる日が来るのだろうか。——来ない、とレインは思った。この夜だけは、忘れない。
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