第15話「星脈の地図」
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風が、語り始めた。
八歳の冬。レインは裏庭の枯れ草の上に立ち、両手を広げていた。目を閉じている。指先に集めた風相のエネルギーが、薄い膜のように広がり、周囲の空気に溶け込んでいく。
風紋読み——と、レインは自分でそう名づけた。
きっかけは、構築の訓練中に気づいたことだった。風相のエネルギーを放出する際、指先から離れたエネルギーは瞬時に霧散する。しかし霧散する過程で、周囲の空気と微妙な干渉を起こす。その干渉パターンに——情報が含まれている。
風は運んでくる。温度差による対流の方向。湿度の勾配。遠くの森から来る木の葉の匂い。動物の体温が空気に残す微かな熱紋。そして——地中を流れる星脈が、地表の空気に与える揺らぎ。
レインは風を「使う」のではなく、風を「読む」ことに気づいた。
攻撃としての風の刃は、依然として威力が足りない。セドリックが素振りで切り落とす枝の方が、レインの風刃よりよほど破壊力がある。しかし「読む」能力は——前世の分析力と、風相の適性が噛み合った結果、異常な精度に達しつつあった。
「先生」
目を閉じたまま、レインは言った。
「東の丘の向こうに、鹿が三頭います。一頭は仔鹿です。体温と呼吸の振動パターンから推定すると——」
「もうよい」
ヴァルターの声が、妙に硬かった。レインが目を開けると、老人は茶碗を膝に置いたまま、微動だにしていなかった。灰色の瞳が、レインを真っ直ぐに見ている。
「お前、今の術を自分で考え出したのか」
「はい。風相のエネルギーを拡散させて、干渉パターンを——」
「仕組みは分かっておる」
ヴァルターが立ち上がった。背筋が伸びている。いつもの猫背が消えていた。
「レイン。その術は、かつて王宮術師団の斥候部隊が使っておった技術に似ておる。いや——原理は同じじゃ。ただし、斥候たちは十人がかりで術を展開し、専用の術具を使う。お前は一人で、しかも基礎術式の応用としてやっておる」
「……そうなのですか」
「驚くところはそこではない。——お前の才は、やはり術の威力ではない。『術を使って何をするか』を考える才じゃ。術式設計師とはこういうことだ」
ヴァルターが歩き出した。「着いてこい」
* * *
ヴァルターの書庫。
老人は棚の奥から、巻かれた羊皮紙を数枚引き出した。広げると、そこには線と記号で描かれた図があった。アルヴェス領周辺の地形図だ。しかし通常の地形図ではない。地形の上に、別の線が重ねて描かれている。
「これは?」
「星脈の流路図じゃ。わしが二十年前に作った。——この地域の地中を流れる星脈の、大まかな位置と方向を記したものだ」
レインは図を食い入るように見つめた。線は複雑に分岐し、合流し、太いところと細いところがある。川の流域図に似ているが、三次元的な深度の情報も記号で示されている。
「先生。この図、いくつか実測と合わない点があります」
「なに?」
「先ほどの風紋読みで感じた星脈の揺らぎと、この図の流路を照合すると——ここ」
レインが指で示した。領地の南東、小川が丘を迂回する地点。
「この地点で、星脈の流れが図の方向と異なります。図では南西に向かっていますが、実際は南に折れている。おそらく二十年前の測定以降、地中の岩盤に変動があって流路がずれたのだと思います」
ヴァルターは黙っていた。長い沈黙だった。
それから、老人は笑った。声のない、目だけの笑い。
「お前——風紋読みの精度で星脈の流路を感知しておるのか。わしの二十年分の調査を、何ヶ月で修正するつもりじゃ」
「修正ではありません。先生の図がなければ、比較対象がなかった。この図があるから、差分が見えるんです」
ヴァルターの目が、一瞬だけ柔らかくなった。しかしすぐに教師の顔に戻った。
「よかろう。ならば——課題を出す」
老人がレインの前に白い羊皮紙を広げた。
「アルヴェス領全域の星脈流路図を、お前自身の手で作れ。わしの図を参考にしてもよい。ただし、風紋読みの実測で裏を取ること。推測だけで線を引くな」
「……全域ですか」
「全域じゃ。春までに完成させよ」
途方もない課題だった。アルヴェス領は小さな領地とはいえ、丘陵と農地と森を含む数十平方里の範囲がある。それを一人で、風紋読みだけで測定する。
しかしレインの目は、紙の上に引かれるべき線をすでに思い描いていた。
「——やります」
* * *
それから四ヶ月、レインは歩いた。
朝は星脈術の訓練。午後はヴァルターの書庫で古代語の読解。そして夕方から日が暮れるまで、領地を歩き回って風紋読みで星脈の流路を測定した。セドリックが「また出かけるのか」と呆れ、エレナが「暗くなる前に帰ってきてね」と心配した。
冬の野を歩く。凍った畑を越え、枯れ木の林を抜け、丘の頂上で風に吹かれる。指先から放った風が戻ってくるのを待ち、そこに含まれる星脈の揺らぎを読み取る。一地点につき三回測定し、平均を取る。それを紙に記録し、帰宅後に地図に落とし込む。
気づいたことがあった。
星脈の流路は、地上の地形とは無関係に分布しているわけではない。特定の鉱物を含む岩盤の近くでは流路が太くなり、粘土層の多い地域では細くなる。そして——流路が集中し、特に太くなる地点がある。
その地点で放つ風紋読みの感触は、不思議だった。地質的な岩盤の層とも異なる。何か有機的な、生きた組織が岩盤に組み込まれているような——そう感じるのは錯覚だと、レインは理解していた。しかし指先を通じて戻ってくる振動には、確かに複雑な「層」があった。
「脈点」とヴァルターは呼んだ。
「星脈が地表近くで集中する場所じゃ。脈点の上では星脈術の効率が跳ね上がる。古代文明は脈点の上に都市を建てた。——そして、現在でも脈点は戦略的な価値を持っておる」
レインの地図には、アルヴェス領内に三つの脈点が記された。一つは屋敷の近く。一つは市場町の地下。そして三つ目は——領地の東端、ハルヴェス侯爵家の領地との境界付近にあった。
「先生。この東の脈点ですが——」
「気づいたか」
ヴァルターの声が低かった。
「アルヴェス家とハルヴェス家の境界線は、あの脈点から百歩ほど西を通っておる。脈点はアルヴェス側にある。——今のところ、はな」
「領地の境界が変われば——」
「脈点の所有権も変わる」
レインは自分が描いた地図を見下ろした。インクの乾いていない線が、領地の全体像を浮かび上がらせている。美しい地図だった。正確で、詳細で、実測に裏打ちされている。
しかし——この地図が持つ意味を、レインはまだ完全には理解していなかった。
春が来た。地図は完成した。ヴァルターはそれを受け取り、長い時間をかけて眺めた。
「見事じゃ」
老人は一言だけ言い、地図を丁寧に巻いた。そしてレインには返さず、書庫の奥の——鍵のかかる引き出しに仕舞った。
「先生?」
「この地図は、わしが預かる。——お前が思っている以上に、これは価値があるものじゃ。そして、価値のあるものは——狙われる」
ヴァルターの細い目が、窓の向こうを見ていた。東の方角。ハルヴェス家の領地が、春の霞の向こうに霞んでいる。
レインの背筋に、微かな冷気が走った。理由は分からない。ただ——ヴァルターが地図を鍵のかかる引き出しに仕舞ったこと。その慎重さが、老人の長い経験から来ていることだけは、理解できた。
帰り道、春の風が頬を撫でた。四ヶ月間歩き続けた領地の風は、もう体が覚えている。どの丘を越えれば風向きが変わるか。どの林を抜ければ星脈の揺らぎが強くなるか。
地図を描くということは、世界を知るということだ。そしてレインは今、自分の足で世界を知り始めていた。
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