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第14話「領地の風景」

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 八歳の秋、レインはグレンに連れられて領地を巡った。


 アルヴェス領は、ファルネーゼ央域の東寄りに位置する中規模の領地だ。起伏の緩やかな丘陵地帯に耕作地が広がり、南を小川が横切っている。人口は二千余り。三つの農村と、小さな市場町が一つ。華やかさはないが、飢えている者もいない——父の治世の成果だった。


 「レイン、市場を見に行こう。お前にも領地のことを知っておいてほしい」


 グレンの言葉に、レインは頷いた。家督はセドリックが継ぐ。次男の自分が領地経営を学ぶ必要は薄い。しかしグレンは兄弟の区別なく、二人に領地を見せたがった。


 市場町は、屋敷から馬で半刻ほどの距離にあった。


 石畳の広場を中心に、木造の商店が並んでいる。穀物、干し肉、なめし革、陶器、蝋燭。扱う品は素朴だが、朝から人の往来がある。農村から籠を背負った女たちが集まり、行商人が荷車から布を広げている。


 レインの目が、無意識に動いた。


 ——動線が悪い。


 広場の南側に穀物商と青果の露台が集中しているが、水場は北側にある。重い荷を運ぶ農婦たちが、広場を横切らなければならない。荷車の通路と歩行者の導線が交差しており、混雑の原因になっている。


 ——在庫管理もされていない。


 干し肉の店では、古い在庫と新しい在庫が混在して並べられている。先入れ先出しの概念がない。これでは品質にばらつきが出る。


 ——流通経路が非効率だ。


 行商人が運んでくる布は、ソレイユ海洋共和国からの輸入品だ。しかし中間に二つの卸元を挟んでいるため、価格が不必要に上がっている。直接取引を——


 思考が止まらなかった。見れば見るほど、改善点が浮かぶ。前世の商社マンの目が、この小さな市場を「案件」として分析し始めていた。


 「父上」


 「なんだ、レイン」


 「あの穀物商の配置ですが、水場の近くに移した方が効率的ではありませんか。運搬の手間が——」


 「ああ、それはな」


 グレンが笑った。困ったような、しかし温かい笑みだった。


 「あの場所は、穀物商のベルタばあさんが三十年前から使っておるのだよ。夫が死んだ後、一人で店を守ってきた場所だ。効率は確かに悪いが、あの場所があの人の——なんというかな、誇りみたいなものでな」


 レインは口を閉じた。


 ——誇り。


 効率とは関係のない変数。前世の蓮なら、「感情で経営判断をするな」と切り捨てただろう。しかし今、グレンの横でベルタという老婆の店を見ていると——皺だらけの手で丁寧に穀物を量る姿が、ただの非効率には見えなかった。


 見えなかった、というのは正確ではない。見え方が——分からなかった。


 ベルタがこちらに気づいた。グレンを見て、深い皺が笑みの形に変わった。


 「おや、グレン様。今日は坊ちゃんもご一緒で」


 「ああ、次男のレインだ。領地を見せてやろうと思ってな」


 「まあ、銀の髪の坊ちゃん。エレナ様に似て、綺麗なお子だこと」


 老婆が量り売りの穀物を紙袋に詰め、レインに差し出した。「持っていきな。今年の新麦だよ」


 レインは受け取った。紙袋は温かかった。焙煎したばかりの麦の匂いが鼻をくすぐる。


 「……ありがとうございます」


 声が自然に出た。この老婆を「非効率な配置の原因」として分析していた自分が、少しだけ居心地悪かった。



    * * *



 市場を歩くグレンの周りには、常に人が集まった。


 「グレン様、今年の麦は上出来ですぞ!」「グレン様、うちの倅が来月嫁を取りまして」「グレン様、あの用水路の件、ありがとうございました」


 農夫も商人も、グレンに声をかける時、顔がほころんでいる。恐れや追従ではない。親しみだった。


 グレンはその一つ一つに足を止めた。麦の出来を喜び、婚礼を祝い、用水路の話では「いや、あれはお前たちが自分で直したようなものだ」と謙遜した。政治的な意味のない会話。効率性のかけらもない。しかしグレンが去った後、農夫たちの顔には満足の色が残っていた。


 レインはその光景を、少し離れた場所から見ていた。


 ——なぜだ。


 グレンは、有能な領主ではない。書類仕事は遅い。政治的駆け引きは苦手だ。近隣領主との交渉では、しばしば不利な条件を飲まされる。前世の蓮の基準で言えば、「経営者として不適格」だ。


 なのに——領民はグレンを慕っている。


 ただ話を聞く。嘘をつかない。約束を守る。たったそれだけのことで、二千の民がこの人についていく。


 それが「信頼」なのだと、頭では理解できた。しかし——どうすればそれが手に入るのかは、分からなかった。前世の鷹司蓮は、部下を「管理」することはできた。成果で評価し、インセンティブで動機づけ、合理的な組織を作った。しかしそれは「信頼」ではなかった。蓮が倒れた時、見舞いに来た部下は——何人いただろうか。


 思い出す必要もなかった。答えは知っている。



    * * *



 昼食は、農村の一軒で取った。


 グレンが「この辺りで一番うまいパンを焼く家がある」と言って、石造りの小さな農家に入っていった。レインはいつの間にか二杯目のスープを飲んでいた。農婦が焼いた黒パンは粗いが、温かく、素朴な甘みがあった。


 グレンは農夫の主人と向かい合い、麦酒を飲んでいた。話題は来年の作付けと、冬の備え。領主と農夫の会話というより、隣人同士の雑談に近かった。


 「グレン様、実はな、東の畑の排水がまた詰まっておりまして——」


 「ああ、あれか。来週、人手を出そう。石を組み直さねばならんだろうから、モルツの石工にも声をかける」


 「ありがたい。しかしモルツの連中は工賃が——」


 「心配するな。あれは領の費用で出す。排水が詰まれば被害はお前の畑だけでは済まん」


 会話が具体的だった。グレンは領地の問題を、一つ一つ自分の目で見て、自分の言葉で答えている。報告書の数字ではなく、現場の土と水の匂いを知っている。


 レインは黙って聞いていた。


 前世の蓮は、現場に降りなかった。報告は部下が上げるもの。判断は数字でするもの。それが「経営者の仕事」だと信じていた。しかしグレンの「経営」は違う。非効率で、属人的で、スケールしない。——しかし、この農夫はグレンを信じている。グレンが「出す」と言えば出る。グレンが「直す」と言えば直る。そういう信用がある。


 帰り道、馬に揺られながら、グレンが言った。


 「レイン。お前は頭がいいから、色々と見えるだろう。直した方がいいところも、たくさんあるだろう」


 「……はい」


 「だが、領地というのはな。田畑と建物でできているのではない。——人で、できている」


 グレンが前を向いた。夕陽が丘の稜線を赤く染めている。


 「お前が将来、どこで何をするにしても、それだけは覚えておいてくれ」


 レインは父の背中を見つめた。


 広い背中だった。剣は強くない。政治は下手だ。しかしこの背中を、二千の民が頼りにしている。


 ——俺には、ないものだ。


 前世でも。今も。


 「正しさ」は持っている。分析力も、知識も。しかし人が背中を預けたくなるような——そういう何かが、自分にはない。それが何なのか、名前すら分からない。


 ただ、一つだけ分かったことがある。


 この父が「不器用」なのではない。自分が——何かを見落としている。


 馬が丘を越え、屋敷の煙突が見えた。エレナの歌が風に乗って聞こえてくる。レインの隣で、グレンの表情が緩んだ。領主の顔ではなく、家に帰る父親の顔だった。


 その変化を、レインは見逃さなかった。しかし——その変化が何を意味するのかは、まだ言葉にできなかった。


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