第13話「兄という存在」
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セドリックは、不思議な兄だった。
十歳。
栗色の短い髪に日焼けした肌。
朝は誰より早く起きて素振りをし、昼はブレイ教官の下で剣術と体術の稽古に汗を流し、夕方からはグレンに付いて領地管理の基礎を学ぶ。
家督相続者としての教育が、すでに本格化していた。
レインから見れば、その日々は過密だった。
星脈術の訓練と古代語の読解に没頭している自分と比べても、セドリックの一日は休む間がない。
しかしセドリックは、疲れた顔を見せなかった。
「レイン、今日の素振り、千回超えたぞ!」
夕食の席で、兄は誇らしげに腕を見せた。
まだ細いが、手のひらには剣胼胝ができている。
十歳の手にしては硬い。
「千回は多すぎます。筋繊維の回復を考えると、七百回程度で休息を入れた方が効率的——」
「出た、レインの効率講座」
セドリックが笑った。
馬鹿にしているのではない。
本当に面白そうに笑うのだ。
弟の理屈っぽさを、この兄はいつも楽しんでいた。
「お前の言う通りにしたら、確かに体は楽になるんだろうな。でもさ、レイン。千回振り切った後にしか見えない景色ってのがあるんだよ」
「景色?」
「うまく言えないけど——限界を超えた瞬間に、剣が体の一部になるっていうか。もう腕が動いてないのに、剣だけが勝手に動くみたいな感覚。あれは七百回じゃ来ない」
レインは黙った。
——体が設計図そのものになる。
ヴァルターが構築について語った言葉と、重なった。セドリックは星脈術を学んでいない。
しかし剣を通じて、同じことに辿り着いている。
理屈ではない、体の感覚で。
「……そうか」
「なんだよ、その顔。珍しく納得したのか?」
「少し」
セドリックがまた笑った。
エレナが「二人とも、冷める前に食べなさい」と声をかける。
グレンが無言でパンをちぎっている。
いつもの食卓だった。
* * *
セドリックとレインの関係は、普通の兄弟とは少し違っていた。
二歳年上の兄は、弟の異常な聡明さに一度も劣等感を見せたことがない。
レインが書庫で難解な書物を読んでいても、ヴァルターと高度な術式の議論をしていても、セドリックは「お前は凄いな、レイン」と言うだけだった。
その素直さが、レインには眩しかった。
前世の鷹司蓮は、周囲の人間を常に「能力」で序列化していた。
有能か無能か。使えるか使えないか。
自分より優秀な人間には警戒し、劣る人間には無関心だった。
そうした目で見れば、セドリックは「凡庸」だ。
星脈術の才能はなく、学問も得意ではない。
剣術は努力で補っているが、天才ではない。
なのに——セドリックには、レインが持っていないものがあった。
人を安心させる力だ。
セドリックがいると、使用人たちの顔がほころぶ。
農夫の子供たちがまとわりつく。
ブレイ教官ですら、稽古の後には目元を緩める。
セドリックは誰に対しても態度を変えない。
偉ぶらず、卑下せず、ただ真っ直ぐに相手を見る。
それが「才能」であることを、レインは頭では理解していた。
しかし、どうすればそうなれるのかは——分からなかった。
* * *
ある日の夕方、セドリックが珍しく沈んだ顔で自室に戻ってきた。
レインは書庫で古代語の文法書と格闘していたが、廊下をとぼとぼと歩く兄の足音に気づいた。
セドリックの歩き方は普段から元気がよく、石の廊下にはっきりと響く。
今日のそれは——重く、遅かった。
書庫を出て、セドリックの部屋の前で迷った。
ノックすべきか。
しかし足が動かなかった。
立ち去ることもできず、扉の前で立っている自分がいた。
——この感覚は、なんだ。
考える前に、手が動いた。
扉を叩く。あの夜、エレナの部屋の前で立ちすくみ、それでも扉を叩いた時と同じだ。
考えるのをやめた瞬間に、体が動く。
「……レイン?」
扉が開いた。セドリックの目が赤かった。
泣いていたのか、泣きそうなのか。
「どうかしましたか」
セドリックはしばらく黙っていた。
それから、部屋に入れ、とでも言うように扉を広げた。
部屋は質素だった。
ベッドと机と、壁に掛けた木剣。
机の上に、広げたままの紙がある。
覗き込むと、政治と礼法の試験だった。
赤い字で直しが入っている。
多い。
「父上にな」
セドリックがベッドの端に座り、頭を掻いた。
「お前は領主になるのだから、もっと真剣に学べと言われた。——剣ばかりに逃げるな、と」
声が小さかった。
いつもの張りのある声ではない。
レインは試験の紙を手に取った。
歴史の問題。
ファルネーゼ連合王国の成立過程と、連合制における領主の義務。
セドリックの回答は——間違ってはいないが、浅い。
表面的な事実を書き並べただけで、構造の理解が足りない。
「セドリック兄さん。この問題の解き方を説明しましょうか。まず五大国の成立背景を整理して、大崩壊後の権力真空が——」
「レイン」
セドリックが苦笑した。
泣きそうな目のまま、しかし口元だけが笑っている。
「お前って、本当にそういうとこあるよな」
「……?」
「ありがとう。でも今はちょっと——ただ、ここにいてくれるだけでいい」
レインの口が、閉じた。
——ここにいるだけ。
エレナと同じことを言う。
「そばにいてくれるだけでいい」。
あの時も意味が分からなかった。
問題を解決しなければ、状況は変わらない。
いるだけで何が変わる。
しかしセドリックの目が、何かを求めていた。
解決策ではない。
正解でもない。
もっと——言葉にならない何かを。
レインは黙って、セドリックの隣に座った。
ベッドの端に並んで腰掛ける。
八歳と十歳。
窓から夕陽が差し込んでいる。
廊下の向こうから、エレナの歌が微かに聞こえていた。
何も言わなかった。
問題の解説もしなかった。
ただ、隣にいた。
しばらくして——どれくらい経ったか分からない——セドリックが深く息を吐いた。
「……なんか、ちょっと楽になった」
レインは驚いた。
何もしていない。
本当に何もしていない。
隣に座っていただけだ。
「なぜですか」
「分かんない。でも、一人で座ってるのと、誰かがいるのって、違うんだよな」
セドリックが立ち上がった。
目の赤みが少し引いている。
「よし、飯食ったら勉強するか。レイン、その時は教えてくれ」
「……はい」
セドリックが部屋を出ていく。
廊下を歩く足音が、来た時より軽かった。
レインは一人、ベッドの端に残った。
何が起きたのか、分からなかった。
問題を解決したわけではない。
試験の点数が上がったわけでもない。
ただ隣に座っただけで、セドリックの足音が変わった。
——ずっと間違えていたのかもしれない。
問題を解決すること。
正解を出すこと。
それが「力になる」ことだと信じていた。
しかしセドリックが求めていたのは、正解ではなかった。
ただ、隣にいる誰か。
その単純さが、レインには難しかった。
理屈で分かっても、体が覚えていない。
しかし——今日、隣に座ることだけはできた。
その事実が、鈍く、静かに、胸の底に沈んでいく。
窓の外で、夕陽が沈みかけていた。
セドリックの木剣が壁に立てかけてある。
傷だらけの木剣。
千回の素振りの跡。
——この兄を、俺は守れるだろうか。
問いが浮かんだことに、自分で驚いた。
「守る」。
前世の鷹司蓮は、誰かを守ったことがない。
守るべき人がいたのに、守らなかった。
今は——守りたい、と思っている。
理屈ではなく。
その感覚の名前を、レインはまだ知らなかった。
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