第12話「老師の書庫」
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ヴァルターの自宅は、アルヴェス領の外れにあった。
丘を二つ越え、樫の木が群生する林を抜けた先に、石造りの小屋が建っている。小屋と呼ぶにはやや大きく、家と呼ぶには質素すぎる。壁は苔に覆われ、屋根の一角は蔦が這い上っている。煙突から細い煙が昇っているのが、かろうじて人の住まいであることを示していた。
「こんなところに住んでいたのですか」
「王宮よりは広いぞ。空がある」
ヴァルターが軋む扉を開けた。中は薄暗い。レインが足を踏み入れると、埃と古い紙の匂いが鼻を突いた。そして——目を見開いた。
本だ。
壁という壁が、本で埋まっていた。木の棚が天井まで積み上げられ、その一段一段に、革装丁の書物、糸綴じの冊子、丸めた羊皮紙、封蝋で閉じられた書簡の束が、隙間なく詰め込まれている。棚に収まりきらないものが床に積まれ、机の上にも、椅子の上にも、暖炉の脇にも、紙の山が小さな城のように聳えている。
アルヴェス家の書庫の、十倍はある。
「先生。これは——」
「王宮術師団の副団長を二十年やると、こうなる」
ヴァルターが茶の支度を始めた。レインは本の壁の前に立ち、背表紙を読んでいった。ファルネーゼ標準語で書かれたものが大半だが、見慣れない文字のものも混じっている。
一冊を引き抜いた。薄い冊子で、表紙が褪せた藍色をしている。開くと、中の文字はファルネーゼ標準語ではなかった。角ばった、直線的な字形。縦書きではなく横書き。語と語の間にくさび状の区切りがある。
「先生。この文字は」
「古代標準語じゃ」
ヴァルターが茶碗を二つ持ってきた。一つをレインに渡し、本の壁に寄りかかる。
「大崩壊以前に、大陸全域で使われておった文字体系じゃ。今の学者にも読める者は少ない。わしも完全には解読できておらん」
レインは頁を見つめた。未知の文字。未知の文法。しかし——。
「規則性があります」
「ほう」
「語頭の文字が七種類に分類できます。おそらく品詞の標識です。動詞はこの形、名詞はこの形——くさびの後に来る語は前の語を修飾しているようなので、形容詞か副詞の機能を持っていると思います」
二頁を見ただけで、それだけの情報を引き出していた。
前世の蓮は、海外赴任のたびに現地語の基礎を叩き込んだ。アラビア語を三ヶ月で実用レベルまで持っていったこともある。言語習得の勘所は、パターン認識だ。個々の単語を覚える前に、構造を掴む。骨格が見えれば、肉づけは時間の問題になる。
ヴァルターの細い目が、わずかに見開かれていた。
「……お前、それを今この場で読み取ったのか」
「まだ推測です。検証には対訳のある文献が必要ですが——この書庫にありますか」
「ある。が——」
ヴァルターが茶を一口すすり、レインを見た。灰色の瞳に、複雑な色が浮かんでいる。
「レイン。古代語を学ぶのは結構じゃが、まず聞いておくことがある」
老人が壁から身を離し、書庫の奥へ歩いていった。最も埃の厚い棚の、最も手の届きにくい位置から、一冊の本を引き出す。黒い革装丁で、金の文字が擦れかけている。
「この世界には、七百年前まで、今とは比べものにならん文明があった」
ヴァルターが本を机に置いた。表紙を撫でる老人の指が、一瞬だけ止まった。
「星脈を用いた建築、通信、交通、医療。今のファルネーゼ王国が百年かけても追いつけんほどの技術が、大陸全域に行き渡っておった。——そしてそれが、一夜にして潰えた」
「大崩壊」
「そうじゃ」
ヴァルターが本を開いた。頁には図版があった。石に刻まれた線刻画の模写らしい。巨大な都市が描かれている。塔が立ち並び、光の帯が空を渡っている。そしてその次の頁には——同じ都市が、瓦礫の山と化した姿が描かれていた。
「星暦八一二年。星脈が突如として大規模に乱れ、大陸各地で地殻変動、瘴気の噴出、星脈の枯渇が同時に起きた。都市は崩壊し、人口の三分の二が失われたと言われておる。原因は——」
老人が言葉を切った。
「不明じゃ。七百年経った今も」
「七百年間、誰も原因を特定できていないのですか」
レインの声に、意図せず力がこもった。前世の商社マンとしての感覚が、警鐘を鳴らしている。原因不明の大規模障害。それは「二度起こり得る」ことを意味する。
「——もう一度、起きる可能性は」
ヴァルターが目を細めた。今度は笑みではない。
「わしが王宮を辞めた本当の理由を、知りたいか」
レインは黙って頷いた。
「十五年前、わしは大崩壊の原因を独自に調査しておった。古代遺跡を巡り、文献を集め、星脈の異常パターンを記録してな。——そしてある仮説に辿り着いた」
老人が窓の外を見た。午後の光が林の間から差し込んでいる。
「大崩壊は、天災ではない。星脈の自然な乱れでもない。あれは——人為的に引き起こされた可能性がある」
レインの背中に、冷たいものが走った。
「人為的に?」
「星脈を制御する古代の技術が暴走した。あるいは、意図的に使用された。——確証はない。しかし、遺跡に残された痕跡はそう読める」
ヴァルターが本を閉じた。
「この仮説を王宮に報告した時、上官に言われたよ。『ヴァルター、余計なことを言うな。民を不安にさせるだけだ。原因不明のまま蓋をしておけ』とな」
「……それで辞めたのですか」
「辞めた、というより追い出されたの。『健康上の問題』で辞任ということにされた。——まあ、実際に胃は壊したがな」
老人は乾いた笑みを浮かべた。しかし目は笑っていなかった。
「わしはの、レイン。分からないことが怖い。原因が分からないまま蓋をするのは——もっと怖い。いつか同じことが起きた時、誰も対処できんからじゃ」
レインは黙っていた。
ヴァルターの言葉が、前世の記憶ではなく——今の、レイン・アルヴェスとしての思考を動かしていた。
原因不明のリスクに蓋をする。それは前世の企業でも同じだった。不都合な真実は隠され、報告書は「問題なし」に書き換えられ、そして——蓋が吹き飛んだ時には、誰も対処できなかった。
しかし今、レインの胸を突いているのは、そうした分析的な類推ではなかった。
ヴァルターの目だ。
七百年前の謎を追い、上官に潰され、辺境に追いやられた老人が——それでもなお、この書庫に本を集め、仮説を捨てずにいる。その目に宿っているものは、知的好奇心だけではなかった。
——怖いから、知ろうとする。
その在り方が、レインには眩しかった。前世の鷹司蓮は、怖いものから目を逸らした。妻の涙が怖くて書斎に逃げた。息子の拒絶が怖くて仕事に逃げた。分からないことが怖くて、分かるものだけを追いかけた。
ヴァルターは、逃げなかった。
「先生」
「なんじゃ」
「僕にも、古代語を教えてください。この書庫の文献を、読めるようになりたい」
声が震えていないことを確認した。八歳の声で、しかし中身は——半分は四十七歳の男だ。
ヴァルターがレインを見つめた。長い沈黙。それから、口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「理由を聞こうか」
「分からないことが、怖いからです」
ヴァルターは何も言わなかった。ただ頷いた。深く、一度だけ。
「——よかろう」
老人は棚から薄い冊子を数冊引き出し、レインに渡した。
「これは古代標準語の初歩的な文法書じゃ。わしが若い頃にまとめたものでな。それから、こちらが対訳のある碑文の写し。この二つを使って、まず文字と基礎文法を叩き込め」
レインは冊子を受け取った。紙は古びているが、中の文字は丁寧だった。若い頃のヴァルターの筆跡。
* * *
帰り道。
夕暮れの丘を歩きながら、レインは手に持った冊子の重みを感じていた。
この日から、レインの日々に新しい軸が加わった。午前はヴァルターの下で星脈術の修練。午後は書庫で古代語の読解。夜は自室で術式の設計。
忙しい。しかし——充実していた。前世の「忙しさ」とは質が違う。あの頃の忙しさは、空虚を埋めるためのものだった。今のそれは、知りたいから走っている。掴みたいものがあるから手を伸ばしている。
丘の上に立つと、アルヴェス家の屋敷が見えた。煙突から夕餉の煙が昇っている。台所でエレナが歌を口ずさんでいる頃だろう。
星脈術の探究。古代文明の謎。
二つの火が、胸の中で静かに揺れていた。どちらもまだ小さい。しかし——消える気配はなかった。
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