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第11話「風を掴む」

---


 構築ができない日々は、冬を越えてなお続いていた。


 吸収は安定した。変換も問題ない。星脈を体内に取り込み、風相のエネルギーに変換するまでの工程は、もはや呼吸のように自然にできる。しかし最後の一段階——変換したエネルギーを術式の形に組み上げて放出する「構築」だけが、何度試みても成功しない。


 指先に集めた風が、術式の「形」を保てない。放出の瞬間にエネルギーが霧散し、ただの突風になって消える。


 八歳の春。レインは裏庭の草の上に座り、何十回目かの試行を終えたところだった。目の前の草むらが風圧でなぎ倒されている。また失敗だ。


 ヴァルターは木の根元に座って茶を飲んでいた。老人はいつも、レインの訓練中は横で茶を飲んでいる。口を出すのは最小限。観察に徹する教師だ。


 「先生」


 「なんじゃ」


 「構築の失敗原因は分かっています。エネルギーの放出時に、術式の維持と放出の同時処理ができていない。理論上は——」


 「理論上は、の」


 ヴァルターが茶碗を膝に置いた。


 「レイン。お前に一つ訊くが、今までに『理論上は正しいのに、うまくいかなかった』経験はあるか」


 答えは即座に出た。ある。前世で何度も。完璧な事業計画が現場で崩壊したこと。論理的に正しい人事配置が部署の士気を壊したこと。合理的な離婚条件を提示したのに——。


 そこで思考を止めた。


 「……あります」


 「その時、お前はどうした」


 「計画を修正しました。変数を見直して、再度——」


 「同じじゃの」


 ヴァルターが笑った。しかし嘲笑ではない。どこか寂しげな笑みだった。


 「お前はいつも、理論を修正しようとする。理論がうまくいかなければ、より精密な理論を作ろうとする。──それ自体は悪いことではない。だがな」


 老人が立ち上がり、レインの前まで歩いてきた。


 「術とは、理論の実行ではない。体の延長じゃ」


 「体の……延長」


 「お前の手は、物を掴む時にいちいち筋肉の収縮順序を計算するか? しないだろう。掴みたいと思った瞬間に、手は動く。術も同じじゃ。構築とは、頭が設計図を描くことではない——体が『こうしたい』と思った時に、星脈がその通りに動くことじゃ」


 言っていることは分かる。分かるが——。


 「感覚の問題ですか」


 「そう言えば、お前は黙り込むじゃろう」


 見透かされていた。



    * * *



 その夜、レインは自室の机に向かっていた。燭台の光が壁に揺れる影を落としている。


 紙の上に、術式の構造を図示していた。ヴァルターから教わった風の刃の基礎術式。星脈のエネルギーがどの経路を通り、どの順序で変換され、どの時点で放出されるか。その全行程を、前世の工程管理の手法で分解している。


 一つの術式を、二十七の工程に分解した。各工程のエネルギー量、タイミング、脈路の使用部位。すべてを数値化し、紙の上に書き出す。


 ——これは、前世でもやったことだ。


 東南アジアのプラント建設案件。現地の工程表が曖昧で、工期が大幅に遅れていた。蓮がやったのは、全工程を分解し、依存関係を洗い出し、ボトルネックを特定すること。クリティカルパスを見つければ、どこに資源を集中すべきかが分かる。


 術式にも、同じことができるはずだ。


 紙を睨む。二十七の工程のうち、失敗が起きるのは第二十一工程——「変換済みエネルギーの形状維持」と第二十三工程——「放出指向の確定」の間だ。この二つの工程を同時に処理しようとするから、片方が崩れる。


 ならば——同時にやらなければいい。


 レインの目が変わった。


 教科書の術式は、形状維持と放出指向を同一工程として設計している。それが「正しい」やり方だ。しかし、この設計はある程度の感覚的な同時処理を前提としている。レインにはそれができない。


 ならば、二つの工程を分離する。形状維持を先に完了させ、「保持」の状態を作ってから、放出指向を後付けする。二段階に分ければ、同時処理は不要になる。


 ——邪道だ。


 術式の設計を改変するということは、教科書が「最適」としている手順を捨てるということだ。効率は下がる。発動速度は遅くなる。しかし——確実性は上がる。


 レインは新しい術式の構造を紙に書き始めた。夜が更けていく。燭台の蝋が溶けて短くなっていく。指が紙を滑る速度が、次第に上がっていった。



    * * *



 翌朝。


 レインは裏庭に立っていた。朝露が草を濡らし、空気がまだ冷たい。ヴァルターはまだ来ていない。


 右手を前に伸ばす。掌を開く。


 吸収。地中の星脈に意識を沈め、脈路を通じてエネルギーを取り込む。これはもう、考えなくてもできる。


 変換。取り込んだ星脈を風相のエネルギーに変える。指先が微かに痺れる、あの感覚。


 ——ここからだ。


 構築。第一段階。変換済みのエネルギーを指先に集め、まず「形状」だけを作る。刃の形。薄く、鋭く、風を圧縮した層を重ねる。放出のことはまだ考えない。ただ、形を作ることだけに集中する。


 指先の空気が、震えた。


 見えた。見えないはずの風が、指先の数寸先で——薄い層を形成している。まだ不安定だ。揺らいでいる。しかし——形がある。


 心臓が速くなる。焦るな。ここで放出に移れば、いつもと同じだ。崩れる。


 深く息を吸った。


 構築。第二段階。形状を保持したまま——放出の方向を定める。前方。三歩先の、あの石に向けて。


 指先の風が、一瞬だけ静止した。


 ——放て。


 風が走った。


 音はなかった。空気の壁を切り裂く、鋭い無音。指先から飛び出した風の刃が、三歩先の拳大の石に当たった。


 石が、割れた。


 綺麗に二つに、ではない。表面が削れ、欠片が飛び散った程度だ。威力としては話にならない。ヴァルターが本気で放てば、あの石は粉塵になるだろう。


 しかし——。


 レインは自分の手を見つめた。指先がまだ震えている。術式の残滓が、脈路の中を名残のように流れている。


 できた。


 構築が、できた。


 声は出なかった。叫ぶような達成感ではなかった。もっと静かで、もっと深い場所から湧いてくる——何かだった。手のひらが熱い。指先が痺れている。この体で、この手で、世界に干渉した。理論でもなく、分析でもなく、この体の延長として、風を動かした。


 前世の四十七年間に、こんな感覚はなかった。


 契約を取った時の高揚感とは違う。昇進した時の達成感とも違う。もっと原始的な——自分の体が世界と繋がっている、という感覚。これが、ヴァルターの言う「体の延長」なのだろうか。まだ完全には理解できない。しかし、一滴だけ——確かに触れた。


 「ほう」


 声がした。振り返ると、ヴァルターが庭の入口に立っていた。いつからいたのか分からない。


 老人は割れた石を見て、レインを見て、それからレインの手元の——昨夜書いた術式の設計図を見た。レインが朝一番で持ち出してきた紙が、草の上に置いてあった。


 ヴァルターが歩み寄り、紙を拾い上げた。


 細い目が、図を追っていく。長い沈黙があった。ヴァルターの表情が変わっていくのが見えた。最初は興味、次に驚き、そして——老人の瞳の奥に、レインが初めて見る色が灯った。


 「……お前、術式を分解したのか」


 「はい。教科書の術式では、形状維持と放出指向が同一工程です。僕にはそれが同時にできないので、二段階に分離しました」


 「見れば分かるわい」


 ヴァルターの声に、珍しく力がこもっていた。


 「形状維持と放出指向の分離。——この発想は、術式の設計そのものを変えるということじゃ。教科書通りにできないから別の方法を作った、というだけの話ではない」


 老人がレインを見据えた。灰色の瞳が、あの日——応接間で初めてレインの質問に驚いた時と同じ光を放っている。


 「お前は術式を『使う』のではなく、『設計する』ことができる。既存の術式を分解し、仕組みを理解し、自分に合った形に再構築する。——それは、術師の才ではない」


 ヴァルターが紙をレインに返した。


 「術式設計師。今はもう、ほとんどおらんがの。古代文明には、そうした者たちがいた。術を使う者ではなく、術を作る者。——お前の才は、そちら側じゃ」


 レインは黙って紙を受け取った。


 術式設計師。その言葉が、胸の中で静かに響いていた。前世の「分析する力」が、この世界では「術式を設計する力」になる。鷹司蓮がプロジェクトを分解し、工程を最適化してきたように、レイン・アルヴェスは術式を分解し、再構築する。


 ——前世の俺は、正しい答えを出すことだけが得意だった。


 しかしヴァルターは別のことを考えているようだった。老人は割れた石を拾い上げ、掌の上で転がしながら、何かを考え込んでいる。


 「レイン」


 「はい」


 「今の術、威力はどうだった。自分で」


 「不十分です。実戦では使えません」


 「そうじゃの。威力も速度も、基礎以下じゃ」


 容赦がない。しかし事実だった。


 「だが——」


 ヴァルターが石を放り投げた。石が草むらに落ちて転がる。


 「お前は術式の設計を変えることで、自分の弱点を回避した。それは"強さ"ではない。"賢さ"じゃ。——そして、この世界では賢さが最も危険な力になり得る」


 危険。その言葉に、レインの背筋が微かに冷えた。


 「……危険、ですか」


 「術式を設計できるということは、既存の術を改変できるということじゃ。改変できるということは——壊すこともできる。そして、新しく作ることもできる。それがどれほどの力か、お前にはまだ分かるまい」


 ヴァルターはレインに背を向けた。


 「明日から、古代語の読解を始める。お前には、わしの書庫を開放しよう」


 足を止めた。振り返らずに、一言だけ付け加えた。


 「——才があるということは、それだけ多くのものを壊せるということじゃ。忘れるな」


 老人の背中が、庭の向こうに消えていく。朝の光が裏庭を満たし、草の上の朝露が小さく輝いていた。


 レインは手のひらを見下ろした。


 石を割った手。術式を書いた手。そして——あの夜、エレナの部屋の扉を叩き、母の手を握った時の温もりを、まだ覚えている手。


 この手で何を掴み、何を壊すのか。その答えは、まだ見えなかった。


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