第35話「灰と誇り」
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数日後、マルクスは学長に謁見を求めた。
「報告がございます。エスキナでの出来事を」
学長は静かにそれを聞いた。種子覚醒のこと。虚相の力のこと。侯爵の計画のこと。母さんの死のこと。
そして最後に、マルクスが言った。
「学長。俺は、学院を一時的に離れます。王都へ。父上と会うために」
学長が目を上げた。
「侯爵と」
「はい。逃げるわけにはいきません。母さんの死を前にして。父上と向き合うしかない」
「一人で」
「友が付き添ってくれます」
学長は頷いた。
「行くがよい。人間として。息子として。だが人間として。その道を歩むのであれば」
マルクスは学院を出た。
その時、レインが後ろを付いて来た。
「一人で大丈夫か」
「いや。頼む」
マルクスの声は、初めて弱さを見せた。
「父上と会う。その時。俺一人では、言葉が足りない。お前の言葉が必要だ。転生者としての視点が」
レインは頷いた。
「行こう」
二人は、王都へと向かった。
その背後で、学院の塔が小さくなっていく。ノエル、リュカ、アリシアは、門で二人を見送った。
「戻ってくるか」
ノエルが言った。
「戻ってくるに決まってるだろ」
リュカが答えた。
「皆で」
アリシアが言った。
「微笑んで。きっと」
五人の友情は、一度も乱れることはなかった。互いの決断を受け入れ。互いの道を信じ。ただ、再会の時を待つのだ。
王都への道は、早い。
馬を乗り継ぎ、三日ほどで到着した。王都の城門は、かつてのように固く閉じられていない。むしろ、開かれている。星脈の回復の知らせが、王都にも伝わったからだ。市民たちの顔には、わずかだが希望が戻っていた。
ハルヴェス侯爵の館は、王都の北側にある。石造りの古い建物。三百年の歴史を刻んだ壁。貴族としての権力と栄光。その象徴のような館。
マルクスは、その前で立ち止まった。
父親に会う。その決断を何度も繰り返しながら、ここまで来た。だが今、その館の前に立つと、足が重くなる。
「来たな」
レインが言った。
「ここまで来たんだ。逃げるわけにはいかない」
マルクスは頷いた。
自分の父親だ。その父親に、母さんの死について、何を言うのか。許すのか。許さないのか。理解するのか。理解しないのか。そうした選択肢が、重くマルクスの肩にのしかかっていた。
門の奥へ。侯爵の私室へ。
ハルヴェス侯爵は、窓から星脈の光を眺めていた。その顔には、複雑な感情が映っていた。失望。怒り。そして、かすかな安堵。
「戻ったか」
侯爵がマルクスを見た。
その視線は、息子を見る父親の視線ではなく、計画の結果を確認する支配者の視線だった。
「星脈が。計画が失敗した。装置の起動権も失われた。だが星脈は戻ってきた」
「はい」
マルクスが答えた。
「種子を覚醒させました。虚相の力が完全には注入されませんでしたが、星脈は確実に回復しています」
「装置はどうした」
「破壊されました。もはや起動は不可能です」
侯爵は長い沈黙に陥った。
その沈黙は、極めて長かった。何分あったのか。時間が意味を失うほどの沈黙。侯爵の心の中で、何かが揺らいでいるのが感じられた。
「私の方法は間違いだったということか」
侯爵が呟いた。
「星脈の枯渇を前にして。世界の滅亡を前にして。権力を使い。計画を立て。人を殺してまで。それが間違いだったということか」
マルクスは答えることができない。その言葉は、まさに父親自身を否定する言葉だからだ。
レインが代わりに言った。
「侯爵。あなたは世界を憂いていました。星脈の枯渇を知り。それを解決しようとしていました。その気持ちは、本物だと思います」
侯爵がレインを見た。
この少年。マルクスが連れてきたこの少年が、何を言おうとしているのか。その興味が、侯爵の瞳に灯った。
「だが」
レインが続けた。
「その方法が誤っていた。人を殺すことで。権力で。それで解決するはずがない。なぜなら、人間はそうしたもので動くのではなく。希望で動くからです」
「希望」
侯爵が呟いた。
「希望など、不確実なものだ。権力こそが世界を動かす。支配者の意思こそが、未来を決める」
「そうです」
レインが答えた。
「不確実です。不完全です。だがそれが人間です。権力では動かない。支配では動かない。希望という、不確実で曖昧で、形のないものが、人間を動かす」
「証拠があるのか」
侯爵が問うた。
「あります」
レインが答えた。
「星脈の回復です。あなたは装置で世界を救おうとしました。だが種子の覚醒で、世界は救われた。五人の少年少女が。権力なく。装置なく。ただ希望を抱いて。それで十分だったのです」
侯爵はレインを見つめた。その瞳には、何かが揺らいでいる。衝撃。混乱。そして、かすかな畏怖。
「お前は何者だ」
「ただの生き直している者です。前に間違えた者が。今度は間違えないようにと。そう思いながら」
「間違えた」
侯爵が言った。
「お前も」
「はい」
レインが答えた。
「前の人生で。商社の役員として。目的のために人を踏みにじってきました。侯爵と同じです。だから侯爵の気持ちはよく分かります。けれど、それは誤りだ」
マルクスが言った。
「母さんを殺したことは。許すことはできません」
侯爵の顔が、かすかに歪んだ。
その一瞬に、マルクスは知った。これまでの疑念が確実になった。父親は、母さんを殺させたのだ。自分の計画のために。自分の野望のために。妻を殺した。
「エレナを殺したことは。そうだ。それは私の指示だ」
侯爵は、静かに認めた。
まるで、重い荷物を下ろすかのように。長い間、心の底に押し殺していた秘密を、ようやく口にするかのように。
マルクスは身体が硬直した。
「研究者として。彼女の研究は。私の計画に矛盾をもたらした。だから排除した。冷酷だが。それが現実だ」
その言葉は、まさに力による支配を象徴していた。邪魔なものは排除する。計画に支障をきたすものは消す。そうした考え方。その冷酷さ。
「そうですね」
レインが言った。
「その決断は、あなたの心に一生重くのしかかるでしょう。世界を救ったとしても。星脈が完全に戻ったとしても。その罪は消えない」
「消えない」
侯爵が呟いた。
その言葉に、ようやく人間らしさが戻ってきたように感じられた。
「それを知っている。だからこそ。装置で世界を救おうとした。何か。大きなものを成し遂げることで。その罪を相殺しようとした」
「それは無理です」
レインが言った。
「人を殺すことで得た罪は。何を成し遂げても。相殺されない。ただ。その罪の中で。どう生きるか。その問いだけが残される」
長い沈黙。
侯爵は窓を見つめていた。その向こうには、王都の街が見える。星脈の光に照らされた街。その市民たちは、侯爵の計画も知らず。その犯罪も知らず。ただ、星脈が戻ったことに感謝するだけだ。
だが侯爵は知っている。その星脈の回復の陰に、一人の女性の死があること。その死が、どれほど尊かったのか。どれほど悔いに満ちているのか。
「マルクス」
最後に、侯爵が言った。
「お前は。父親を許すのか」
マルクスは答えない。答えられない。
その言葉は、簡単に口にできるものではない。許す。その一言に、どれだけの重みがあるのか。どれだけの決断が詰まっているのか。
「許せません」
最後に、マルクスが言った。
その声は、かすかに震えていた。
「でも。父上の痛みを理解することはできます。だから。この先。一緒に歩むことはできる。許すことなく」
侯爵は、かすかに頷いた。
その頷きは、息子の決断を受け入れるものであり、同時に自分の罪の重さを受け入れるものでもあった。
マルクスと侯爵は、その時、初めて相互理解の道を歩み始めたのだ。許しはない。謝罪も不十分だ。だが理解がある。その理解の中で、父と子は同じ方向を向いた。
「母さんは何を望んでいたのか」
マルクスが問うた。
「それは」
侯爵が答えた。
「お前が決めることだ。妻の遺志は。息子であるお前が、どう解釈するかで初めて意味を持つ」
マルクスはその言葉を受け取った。
母さんの死。その死に意味を与えることができるのは、自分自身。そのことに、ようやくたどり着いたのだ。
窓の外では、星脈の光が流れていた。完全ではない光。不確実な光。だがそれは、確実に、着実に、世界を照らし続けていた。
二人が館を出た時、王都の夕日が大陸全体を赤く染めていた。
灰のような色をした夕日。その奥には、星脈の光。新しい生命の光。
「灰と誇り」
レインが呟いた。
「灰から立ち上がった者たちの誇り。それが俺たちの物語なのかもしれません」
マルクスは、その言葉に何も答えなかった。ただ、学院へ戻る馬に乗った。
レインと一緒に。友として。兄弟として。
その背後で、王都の鐘が鳴った。何かを告げるその音。変化の音。新しい時代の鐘。
二人は、その音を背に、学院へと向かった。
三日の旅路。その間、二人は何も話さなかった。話すべき言葉がまだ見つかっていないからだ。
だがそのような時間もまた、大事なのだ。人間が共に歩み続けること。そのことの中に、言葉以上の何かがあるのだ。
学院の門が見えた時、マルクスは初めてその肩の荷が、わずかだが軽くなったことに気付いた。
許しはまだない。罪の重さは消えていない。だが歩むことはできる。その確信だけが、マルクスの心に残っていた。




