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第10話「握れない手」


---


 母親の手を、握ったことはあるか。


 ヴァルターの問いが、頭から離れなかった。


 翌日の訓練で、レインは星脈の吸収に失敗した。

 いつもなら数秒で同調できる地中の流れが、今日はうまく掴めない。

 意識が散っている。

 ヴァルターの問いが、思考の隙間に入り込んでくる。


 「集中できておらんの」


 ヴァルターが裏庭の木の根元に座り、レインを見ている。


 「……すみません」


 「訊いたことを、気にしておるか」


 レインは黙った。

 気にしている。

 気にしていないと言えば嘘になる。

 しかし何を気にしているのかが、自分でもよく分からなかった。


 手を握ることに意味はない。

 それは論理的に明白だ。

 手を握っても病は治らない。

 問題は解決しない。

 状況は何も変わらない。

 なのに——あの問いが、小さな棘のように胸に引っかかっている。


 ヴァルターが立ち上がり、レインの隣に来た。

 いつもは向かい合って座るが、今日は横に並んだ。


 「わしの妻の話をしてやろうか」


 唐突だった。

 ヴァルターが自分のことを話すのは珍しい。

 レインは頷いた。


 「リーナという名前だった。パトリア出身の、気の強い女でな。わしが王宮の術師をしていた頃に出会った。わしの術を見て、『あんた、すごいのかもしれないけど、偉そうね』と言った最初の人間じゃ」


 ヴァルターは笑った。

 普段の皮肉めいた笑みではない。

 もっと柔らかい、遠い目をした笑い方だった。


 「二十年前に、病で逝った」


 風が吹いた。

 裏庭の草が揺れる。

 レインは黙って聞いていた。


 「末期の半年は、わしがずっとそばにおった。宮廷を辞め、術の研究も止め、ただリーナのそばにおった」


 「……治す術は、なかったのですか」


 「なかった。命相の術師を何人も呼んだ。薬も尽くした。しかし——術では、どうにもならんこともある」


 ヴァルターが空を仰いだ。


 「最期の夜のことは、今でも覚えておる。リーナはもう目も開けられんかった。息をするのがやっとでな。わしにできたのは——手を握ることだけだった」


 レインの胸の奥で、何かが軋んだ。


 「術師として何百もの術を使えたわしが、最期に妻にしてやれたのは、それだけだった。脈路に星脈を通し、風を操り、識相で何百里先の気配を読むこの手が——リーナの手を握ることしか、できんかった」


 沈黙が落ちた。

 虫の声がやけに大きく聞こえる。


 「あの時はな、自分が無力だと思った。何のための術だと。何のための力だと。——しかし」


 ヴァルターがレインの方を向いた。灰色の瞳に、夕陽の橙はない。朝の澄んだ光だけがある。


 「リーナは最期に、わしの手を握り返してくれた。目は開かなんだ。声も出なんだ。じゃが、指先に——ほんの少しだけ力がこもった」


 老人は目を細めた。


 「あれで良かったのだと、今は思える」


 ——あれで良かった。


 その言葉の意味を、レインは掴めなかった。

 何が「良かった」のか。

 妻は死んだ。

 術では救えなかった。

 手を握っただけだ。

 それが——なぜ「良かった」になる。


 「先生。それは……合理的ではありません」


 声が震えていた。自分でも驚いた。


 「合理的ではないの。その通りじゃ」


 ヴァルターが穏やかに言った。


 「じゃがな、レイン。人は合理的にだけ生きていくことは、できんのじゃよ」



    * * *



 その夜、レインは眠れなかった。


 ベッドの上で天井を見つめる。

 二つの月の光が窓から射し込み、部屋を青白く染めている。


 ヴァルターの話が、前世の記憶を掘り起こしていた。


 ——離婚が決まった日。

 美咲がリビングのテーブルに書類を置いた。

 蓮は書斎にいた。

 書類に目を通し、条件を確認し、印鑑を押した。

 美咲は泣いていた。

 蓮は「条件に不備があれば連絡してくれ」と言った。

 美咲が何か言おうとしたのを、蓮は遮った。

 「感情的な議論は生産的ではない」。


 美咲の手を、握らなかった。


 ——翔太との最後の面会。

 ファミリーレストランで向かい合った。

 十五歳の息子は、蓮を見ようとしなかった。

 蓮は成績のことを訊いた。

 進路の選択肢を並べた。

 翔太は何も答えず、最後に言った。

 「もう来なくていいよ、パパ」。


 翔太の手を、握らなかった。


 握ろうと思ったことすらなかった。

 手を握って、何になる。

 問題は離婚の条件整理であり、翔太の進路設計であり——手を握ることは、そのどれにも寄与しない。


 前世の鷹司蓮は、そう考えて生きた。四十七年間、ずっと。


 そして——死ぬ間際、救急車の中で思ったのは、「俺の四十七年間は何だったんだ」だった。


 レインは寝返りを打った。


 ヴァルターは、手を握ることしかできなかったと言った。

 しかしリーナは、最期にその手を握り返した。

 ——それが「良かった」と、二十年経った今、言える。


 鷹司蓮には、握り返してくれる人がいなかった。そもそも、握らなかったのだから当然だ。


 ——エレナは、今日もレインの手を握ってくれた。


 風邪はもう治りかけている。

 夕食の時、エレナは席について根菜の温かい汁物を飲んで、「もう大丈夫よ」と笑った。

 その時、レインの頭をそっと撫でた。

 当たり前のように。

 何の見返りも求めず。


 レインはベッドから降りた。


 素足で廊下に出る。

 石の床が冷たい。

 二つの月明かりが、窓から帯のように廊下を照らしている。


 エレナの部屋の前で、足が止まった。


 扉に手を伸ばす。——止まる。


 ノックすれば、エレナは起きる。

 こんな夜更けに何の用かと訊かれる。

 そして何と答える。

 「手を握りに来ました」?

 七歳の子供なら許されるかもしれない。

 しかしこの中身は四十七年を生きた男だ。

 手を握ることの意味すら理解できない男が、何をしに来たのか。


 ——前世でもこうだった。


 美咲が寝室で泣いていた夜。

 蓮は書斎のドアの前に立った。

 ドアの向こうから、押し殺した嗚咽が聞こえていた。

 蓮はノックしなかった。

 何を言えばいいのか分からなかったからだ。

 翌朝、美咲は何事もなかったように朝食を作った。

 蓮もまた、何事もなかったように新聞を開いた。


 あの夜、ドアを開けていれば。手を握っていれば。何か——変わっただろうか。


 分からない。


 分からないが、今——同じ場所に立っている。


 扉の前。手を伸ばせば届く距離。あの夜と、同じだ。


 レインの手が震えた。


 ——握ればいい。ただ、それだけだ。


 ヴァルターの言葉が蘇る。「お前は少し、頭に頼りすぎるの」。エレナの言葉が蘇る。「そばにいてくれるだけでいいのよ」。


 どちらも正しい。頭では分かっている。


 ——だが、「分かっている」だけでは、扉は開かない。


 レインは目を閉じた。考えるのをやめた。頭に頼ることをやめた。前世の四十七年間で築いた合理的思考を、ほんの一瞬だけ手放した。


 手が動いた。


 扉を、叩いた。


 二回。小さく。自分でも聞こえないほど小さな音だった。


 しかし——扉が開いた。


 「あら、レイン。どうしたの?」


 エレナが立っていた。

 寝間着姿で、髪を下ろしている。

 灰がかった銀髪が、月明かりの中でレインと同じ色に光っていた。


 レインは何も言えなかった。


 用意していた言葉がない。

 理由もない。

 目的もない。

 ただ——ここに来た。


 レインは手を伸ばした。エレナの手を、握った。


 ぎこちなく。

 不器用に。

 七歳の小さな手で、母の細い指を包んだ。


 力の加減が分からない。

 強すぎるかもしれない。

 弱すぎるかもしれない。

 正解が分からない。

 しかし——離したくなかった。


 エレナは少し驚いた顔をした。

 目を見開き、レインの顔を見て——それから、握られた手を見た。


 「……温かいわね」


 エレナが微笑んだ。涙が、一筋だけ頬を伝った。


 それから、エレナはレインの手を握り返した。

 ヴァルターの妻がそうしたように。

 ほんの少しだけ力をこめて。


 レインは思った。


 この手の温かさが、何を意味するのか。俺にはまだ分からない。


 手を握ることで、何が解決するのかも分からない。


 だが——離したくないと思った。


 それだけは、確かだ。



    * * *



 翌朝、エレナはいつも通りに台所に立ち、歌を口ずさんでいた。

 昨夜のことには触れなかった。

 ただ、朝食の時にレインの頭を撫でる手が、いつもより少しだけ長く留まった気がした。


 セドリックが「母上、今日の卵焼き、いつもより美味いな」と言い、グレンが無言で頷いた。


 穏やかな朝だった。


 窓の外では、アルヴェス領の麦畑が秋の風に揺れている。

 遠くに二つの尖塔を持つフィルモスの町が見え、その向こうには紫がかった山脈が霞んでいる。


 この景色を、レインは好きだと思った。

 理由はない。

 合理的な根拠もない。

 ただ——好きだった。


 穏やかな日々は、あと三年続いた。


 ——たった、三年。


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