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第1話「四十七年目の終わり」


---


 視界の端が暗くなったのは、役員会議室を出た直後だった。


 十二月の東京。

 暖房の効いた会議室から廊下に出た瞬間、冷えた空気が肺を刺す。

 四時間に及んだ臨時取締役会の疲労が首筋に張りついていた。

 東南アジア新規事業の最終承認。

 反対派の三人を論理と数字で黙らせ、全会一致の議決に持ち込んだ。

 

 完璧な結果だ。


 ──完璧な、結果だ。


 廊下を歩く。

 革靴がリノリウムの床を叩く音が、やけに遠く聞こえる。

 左腕の内側に、鈍い痺れ。

 最初は会議中の緊張のせいだと思った。

 しかし三歩進むごとに痺れが胸の中心へ広がっていく。


 鷹司蓮は立ち止まった。


 四十七歳。大手総合商社の最年少役員。

 海外事業部を統括し、この三年で中東とアジアの大型案件を六つ成約させた。

 社内で「切れ者」と呼ばれ、業界誌に名前が載り、後輩たちが背中を追いかけてくる。

 

 それが、鷹司蓮という男の四十七年間の集大成だった。


 胸の痛みが、急に鋭くなった。

 息が、できない。


 膝が折れる。

 廊下の壁に手をつく。

 冷たいガラスの感触。

 視界が白く飛び、戻り、また飛ぶ。遠くで誰かが叫んでいる。


 「鷹司さん!」「救急車!」


 ──ああ、これは。



 理解するのに、三秒もかからなかった。

 心筋梗塞。

 リスクファクターは把握していた。

 慢性的な睡眠不足、不規則な食事、ストレス。

 健康診断で指摘されるたびに、「来月から改善する」と繰り返していた。

 

 来月は、来なかった。


 仰向けに倒れたらしい。

 天井の蛍光灯がぼんやりと見える。

 誰かが「動かないでください」と言っている。

 ネクタイを緩められる感触がした。


 痛い、というよりも、重い。


 胸の真ん中に巨大な石を載せられたような圧迫感。

 呼吸のたびに世界が遠ざかっていく。


 ──死ぬのか。


 意外なほど、恐怖はなかった。

 代わりに浮かんだのは、奇妙なほど鮮明な記憶だった。


 美咲の顔。


 離婚届を差し出した時の、妻の──いや、元妻の横顔だ。


 泣いていなかった。

 あの日の美咲は泣いていなかった。

 むしろ穏やかだった。

 諦めた人間だけが持つ、静かな表情。


 「あなた頭の中は仕事のことばかり。私たちのことなんて考えたこともないでしょう」


 あの時、俺は何と返したか。──何も返さなかった。

 黙って印鑑を押した。効率的だと思ったのだ。


 引き留めても互いに消耗するだけだ、と。

 美咲が何年も前から泣いていたことに、俺はいつ気づいていた? 気づいていなかったのか。

 それとも、気づいていて無視したのか。


 記憶が切り替わる。


 翔太の背中。

 十五歳。

 最後の面会の日だった。

 ファミリーレストランで向かい合って座り、俺は二十分遅刻した。

 謝罪の言葉を口にする前に、翔太は立ち上がった。


 「もう来なくていいよ、パパ」


 振り返らなかった。

 細い背中が自動ドアの向こうに消えていく。

 あの時、俺は追いかけなかった。

 会社から緊急の電話が入っていたのだ。


 ──いや、違う。電話を言い訳にして、追いかけなかったのだ。

 あの背中に何と声をかければいいか分からなかった。

 分からないことが怖くて、分かるもの──仕事に逃げた。


 救急車のサイレンが聞こえる。

 揺れている。

 ストレッチャーの硬い感触が背中にある。

 酸素マスクの冷たさ。

 救急隊員の声が、水の底から聞こえるように遠い。


 蓮は天井を見つめていた。

 救急車の白い天井。

 蛍光灯の光が目に沁みる。


 走馬灯というやつか。

 ドラマでしか知らなかったが、本当にあるらしい。

 しかし浮かんでくるのは、成功の記憶ではなかった。

 中東での大型契約も、役員就任の辞令も、業界誌の表紙も──何一つ、浮かんでこない。


 浮かぶのは、失ったものばかりだ。


 新婚の頃の美咲の笑顔。

 「蓮くん、今日は早く帰ってきてくれたんだ」──あの笑顔を、いつから見なくなった。


 翔太が初めて歩いた日のこと。

 美咲が興奮して電話をかけてきた。

 俺はその電話を、会議中だからと切った。


 翔太の運動会。

 約束していたのに、出張が入った。

 「パパ、来てくれるって言ったのに」と泣いた翔太を、美咲が慰めていた。

 

 ──その話を、後から美咲に聞いた時、俺は何と言った。「来年は行くから」。

 

 来年も、行かなかった。


 四十七年。


 六つの大型案件。

 三つの社長賞。

 業界での名声。

 部下からの信頼。


 ──部下からの信頼? 本当か? 俺が倒れた今、あいつらは何を思っている。

 心配しているのか、後任の人事を気にしているのか。


 ……どちらでも、同じだ。


 ふと、別の記憶が浮かんだ。

 三年前のことだ。

 部下の山根が過労で倒れた。

 三日間の入院。

 見舞いに行った蓮が最初に言ったのは、「体調管理も仕事のうちだ。プロジェクトの引き継ぎ資料を作っておいてくれ」だった。


 山根は何も言わなかった。

 ただ、目の光が消えた。


 あの時、隣にいた別の部下──名前は思い出せない──が小声で言った。

 「鷹司さん、山根は……鷹司さんに認めてもらいたくて、無理してたんですよ」


 俺は何と返したか。

 「だったら尚更、結果で示すべきだ」。


 ──ああ。


 あの時の山根の目と、離婚届を持つ美咲の目と、背を向けた翔太の目が、全部同じだったことに、今になって気づくのか。

 四十七年間、ずっと目の前にあった感情の色を、俺はただの一度も正しく読めなかった。

 読もうとしなかった。


 酸素マスクの中で、蓮は息をした。

 浅く、短い呼吸。

 胸の圧迫感がさらに増している。

 意識の輪郭がぼやけ始めた。


 最期に思うことが、これか。


 役員会議の勝利でも、数十億の契約でもなく。

 離婚届の美咲と、背を向けた翔太の記憶が、目蓋の裏に焼きついて離れない。


 ──俺の四十七年は、何だったんだ。


 答えは出なかった。


 意識が沈んでいく。

 暗く、深く、底のない場所へ。

 サイレンの音も、救急隊員の声も、美咲の横顔も、翔太の背中も、すべてが遠くなっていく。

 最後に残ったのは、痛みですらなかった。


 ただ、空っぽだった。


 四十七年かけて積み上げたものが、何一つ手の中に残っていない。

 その事実だけが、暗闇の中にぽつりと残った。


 そして──。



    * * *



 光が、あった。


 暗闇の底に沈んだはずの意識が、不意に光を掴んだ。

 柔らかく、温かい、橙色の光。

 蛍光灯の白い光とは違う。

 もっと穏やかで、揺らぎがある。


 ──火? 暖炉の光か。


 視界が滲んでいる。

 何も見えない。

 いや、見えてはいるのだが、焦点が合わない。

 すべてがぼやけた色の塊として存在している。


 匂いがした。

 病院の消毒液ではない。

 木が燃える匂い。

 そこに混じる、かすかに甘い──花か、香か。

 嗅いだことのない匂いだった。


 空気そのものの質が違う。

 東京のビルの中とは比べものにならないほど柔らかく、厚みがあり、どこか湿り気を帯びている。


 声が聞こえた。


 知らない言語だった。

 日本語でも英語でもない。

 中東駐在時代に覚えたアラビア語でも、東南アジアで耳にしたどの言語とも違う。

 柔らかな母音の連なり。

 子音の立て方に不思議な抑揚があり、歌のような響きがある。

 意味はまったく分からない。

 しかし声の調子だけは読み取れた。


 ──喜んでいる。この声の主は、喜んでいる。


 体が動かない。

 手足の感覚はあるが、思い通りに動かせない。

 自分の手を視界に入れようとして──指が見えた。


 小さい。


 異常なほど、小さい。赤く、皺だらけの、生まれたばかりの──。


 思考が凍った。


 抱かれている。

 誰かの腕に、包まれるように抱かれている。

 胸元に押し当てられた頬に、心臓の鼓動が伝わってくる。

 規則正しく、力強く。

 生きている人間の鼓動だ。


 温かい。


 その温かさが、暗闇の中で沈んでいた意識を揺さぶった。

 蓮は──いや、もう蓮ではないのかもしれない。

 この小さな体の持ち主は、理解の及ばないまま、ただ一つのことだけを感じていた。


 温かい。


 前の四十七年間で、最期の瞬間まで手に入らなかったもの。

 いや、手放し続けてきたもの。

 それが今、この腕の中にある。

 ただ生まれてきただけで、この腕は自分を包んでいる。


 意味は分からない。状況も分からない。ただ──。


 声の主が、また何かを言った。

 知らない言葉。

 知らない声。

 しかしその声は震えていた。

 泣いているのか、笑っているのか。

 きっと、その両方なのだろう。


 こんなふうに泣きながら笑う声を、俺はいつ最後に聞いた?


 ──思い出せない。


 思い出せないほど、遠い昔のことだ。

 あるいは、一度も聞いたことがなかったのかもしれない。


 意識がまた薄れていく。

 赤子の体は長く起きていられないらしい。

 しかし今度の闇は、あの空っぽの暗闇とは違った。

 温かさに包まれたまま、ゆっくりと眠りに落ちていく感覚。


 最後の意識の断片が、ぼんやりと思った。


 ──知らない言語で、誰かが泣いていて、笑っている。


 俺を抱いて、笑っている。


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