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記憶と記録

 茜色の光が、楓ケ丘高校の校舎を分厚く塗りつぶしていく。放課後の静寂は、廊下を歩く自分の足音さえも過剰なほどに響かせた。図書館に忘れた筆箱を取りに来た私の耳に、誰もいないはずの教室から微かな声が届いた。私は反射的に足を止め、廊下の壁に身を寄せる。教室の中には、多田見君と渡辺君の二人だけがいた。夕日に溶け込みそうなほど穏やかな空気が、そこには流れていた。


 渡辺君は、いつものように窓際の席に座り、多田見君はその後ろの机に腰掛けている。渡辺君の鞄の隅で、楓ケ丘町限定の、少し色あせたマスコットが揺れていた。多田見君は、その小さなストラップをじっと見つめている。彼が以前言っていた、転校生としてこの町に来たはずの渡辺君が、実は以前この地に住んでいたことを既に見抜いていることの理由が、私には分かった。

「…ねえ、多田見君」

 渡辺君が、一度言葉を切り、震える指先で鞄の奥から一通の封筒を取り出した。それは、長い年月を経たせいで角が擦れ、わずかに変色している。


「今まで誰にも話したことがなかったことを話すね。僕の家は転勤族で、どこに行ってもすぐにいなくなる。…だから、誰とも親しくなる必要なんてないと思っていた」

 多田見君は何も言わない。ただ、渡辺君の言葉を、一言一句こぼさぬように耳を傾けている。その眼差しは、観察対象を分析する冷徹なものではなく、そこにいる一人の人間をありのまま受け入れようとする、どこか慈しみさえ感じさせるものだった。

「昔、この町にいた頃、ある友達と約束をしたんだ。『どんなに遠く離れても、ずっと友達でいよう』って。当時はスマホもなくて、手紙を書き合っていた。楽しかったんだ。自分の書いた文字が、誰かに届いて、また返ってくる。それだけで、僕の人生には意味があるって信じられたから」


 渡辺君は、封筒を握りしめる手を強くした。

「でも、ある日突然、手紙が来なくなった。…何通書いても、返事はなかった。自分が去った場所で、僕の存在が透明になっていくような感覚だった。その時、僕は決めたんだ。もう二度と、あんな思いはしない。誰とも深く関わらない。離れる時に傷つかないように、自分から関係を絶つんだって」

 渡辺君がゆっくりと封筒を開くと、中から一枚の便箋が出てきた。それは、彼が何年も守り続けてきた、最後の繋がりの証だった。

「…これが、向こうから来た最後の手紙。僕が最後に書いた手紙に、返事はなかった。僕はその時、自分がこの町の風景の一部から、ただの他人になってしまったんだって思い知らされたんだ」


 多田見君は、渡辺君の手から手紙を受け取ることはせず、ただその便箋の端を静かに見つめた。渡辺君の視線は宙を彷徨っている。彼が抱えてきた孤独の重さが、教室の埃を舞い上がらせるような静けさとなって満ちていく。彼は渡辺君の過去を、ただのデータとしてではなく、一人の友人が負った古傷として認識しているようだった。

「…渡辺」

 多田見君の声は、夕暮れの教室で驚くほど低く、穏やかに響いた。

「俺は、お前が誰かと交わした約束の顛末なんて知らない。お前がどんな手紙を書いたのかも、返事が来なかったその友達が今どうしているのかも、俺には関係のないことだ」

 渡辺君が、少しだけ悲しげに口元を歪めた。けれど、多田見君は言葉を止めない。

「だが、一つだけ言えることがある。お前がこの町で過ごした記憶、そして今、ここで俺と会話をしているという事実は、お前が想像するよりも遥かに強固なものだ。少なくとも俺は、お前を忘れない。たとえお前が明日、別の町へ消えたとしても、お前がここで俺と実験を行い、クッキーを分け合った時間は、俺の記録の中から消えることはない」

 その発言は、どこまでも論理的でありながら、同時に残酷なほど純粋な宣告だった。多田見君にとって、忘れないという言葉は、安易な慰めではない。彼の脳内に刻まれた観察記録という名の記憶は、彼自身が死ぬまで書き換えられることのない、絶対的な事実だからだ。


 渡辺君の瞳が大きく揺れた。彼は多田見君の真っ直ぐな瞳を覗き込み、その言葉の中に、嘘偽りのない真実を見出したようだった。多田見君は決して、人を騙すような優しい嘘をつく人間ではない。だからこそ、その言葉は渡辺君の心の奥底にある氷の壁を、音を立てて砕いていった。

「…忘れない、か」

 渡辺君の頬を、一筋の涙が伝った。それは悲しみの涙ではない。長年、自分を縛り付けてきた忘却の恐怖から解放された、安堵の涙だった。渡辺君は震える手で、手紙を丁寧に封筒へ戻した。彼の表情から、今まで纏っていた透明な仮面が剥がれ落ちていく。

「ありがとう。…なんだか、不思議だね。多田見君に出会ってから、世界の色が少しだけ違って見えるよ」

 渡辺君は、少しだけ照れくさそうに、けれど今までで一番晴れやかな笑顔を多田見君に向けた。彼は多田見君の真っ直ぐな瞳をしっかりと見つめ、一歩だけ勇気を出して、その距離を縮めた。

「あのさ、これからは透君って呼んでもいいかな? 前までは友達のこと、名前で呼んでたんだ」


 その言葉は、多田見君の心にも届いたはずだ。いつもは無表情な観察者が、小さく、本当に小さく息を呑んだのが分かった。彼は、渡辺君の提案を拒むようなことはしなかった。それどころか、彼は少しだけ視線を逸らし、不器用に頷いてみせた。

「…勝手にしろ。」

 多田見君の口からはそんな素っ気ない言葉が出たけれど、その表情には微かな温かみが宿っていた。渡辺君は、その不器用な許諾を、心からの喜びとして受け取った。二人の間には、もはや言葉を交わす必要のない、確かな絆が芽生えていた。教室の窓から差し込む夕日は、彼らの影を長く引き伸ばし、夕闇の中に溶かしていく。渡辺君は鞄を肩にかけ、多田見君の隣を歩き出した。

「帰るぞ。…奏汰」

 二人の足音が、静寂に包まれた校舎に重なって響く。それはまるで、これから始まる新しい物語の序曲のように聞こえた。


 私は、息を潜めてその光景を見守っていた。多田見君が観察対象に介入し、その結末に自分の感情を混ぜることは極めて稀だ。けれど、今の彼の姿を見て、確信した。彼はただ観察するだけではない。彼は、誰かの孤独を解きほぐし、その人生に色を塗るという、最も不器用で、最も尊い役割を果たそうとしているのだと。二人が教室から出ていき、足音が遠ざかっていく。私はようやく大きく息を吐き出し、隠れていた廊下から出て、静まり返った教室の中をそっと覗き込んだ。そこには、二人がいたという確かな残響が、埃とともに舞っているような気がした。楓ケ丘の町は、秋の訪れを告げる冷たい風を吹き抜かせている。けれど、私の心の中には、秋風吹き込む教室の静けさと、透君という名前の響きが、いつまでも温かく残っていた。観察者である多田見君が、観察される側であった渡辺君と手を携え、新しい一歩を踏み出した瞬間。私は、その歴史的な瞬間に立ち会えたことへの、不思議な高揚感を感じていた。


 この先、どんな季節が訪れようとも、彼らが共有したこの時間は消えることはない。多田見君の観察記録の中に、渡辺奏汰という人間が、決して風化することのないページとして刻まれたのだ。その事実は、私にとって何よりも重く、そして美しい物語の始まりのように思えた。私は自分の鞄をしっかりと胸に抱え、静かに昇降口へと向かった。新学期はまだ始まったばかりだ。楓ケ丘の町で、彼らがどのような関係を築き、どんな新しい発見をしていくのか。私はその全てを、これからも一番近くで見つめ続けたいと強く願った。多田見君の不器用な優しさが、この町を少しずつ変えていく。その光景を、私は一生、忘れることはないだろう。


 空はもう、深い藍色に染まりかけている。一番星が、校舎の屋根の向こうで小さく瞬いた。それは、これから始まる彼らの未来を祝福するように、静かに、優しく、私を見下ろしていた。今日の出来事は、私の多田見透・観察記録のどこにも記されることのない、たった一つの秘密の記憶として、私の胸に深く刻み込まれていく。そうして、楓ケ丘の夜は、誰の騒ぎも起こすことなく、優しく静かに更けていくのだった。

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