自衛
今日から新学期。私が多田見君を観察するようになってから四か月程が経過するが、彼について分かってきたことがいくつかある。
①図書室の一番奥から三番目の席、そこが彼の特等席だ。理澄ちゃんもよく座っているけれど彼女がいない日の朝と放課後は、高確率でそこに座っている。その席からは校門がよく見えるため、学校に出入りする人物を観察するのにうってつけの場所なのだろう。
②多田見君は生徒も先生も等しく観察しているけど、授業中、実は彼が一番真剣に観察しているのは、外の犬の散歩をしている人。黒板より外ばっかり見てるけど、大丈夫なのかな。…実は犬がめちゃくちゃ好きだったりとか?
③興味深い対象を見つけると、極端にまばたきが減る。逆に、飽きたり予測通りだったりすると、すぐ窓の外や他のクラスメイトへ視線を移す。
④スイーツの話題や、誰かがお菓子を食べている時に、一瞬だけ口元が緩む。おそらく、彼は甘党である。
⑤弱点は早苗さん。これは直々に経験したけど、早苗さんとのやり取りを人質にすればちょっとくらいのお願いなら聞いてくれそう。
⑥放課後みんなが帰宅してからの時間や休みの日は、中央公園のベンチにいることが多い。あの公園は遊びに来た子ども達や、その親こそいるけどあんまり観察していて面白そうな人はいないと思うんだけどな。単にあの場所が好きとか、意外と小さい子が好きとか?何か他の理由があるのかも……。
私の脳内には、そんな多田見透・観察記録が溜まっていく。
夏休みが明け、楓ケ丘高校に秋の気配が忍び寄る九月。教室は休みボケした生徒たちの喧騒に包まれていた。黒板には新学期という文字が躍り、窓からは少しだけ高くなった空と、柔らかい日差しが差し込んでいる。
「おっはよー、隣子! 宿題終わった? 私、昨日徹夜して死にそうだったよ〜」
志帆が相変わらずのテンションで私の机を叩く。私は笑って答えながら、視線を斜め後ろへ走らせた。多田見君は、相変わらず自分の席に座って、静かに窓の外を見つめている。新学期初日というのに、彼の醸し出すここではないどこかを見ている雰囲気は、以前までと何も変わっていなかった。
その時だった。教卓の前に担任の先生と、一人の少年が立っているのに気づいた。
「えっ、転校生?」
クラスの空気が一瞬だけ静まり返る。現れた少年は、まるで春の光をそのまま体現したような、柔らかくて透明感のある雰囲気を持っていた。少し長めの髪に、優しげな垂れ目。クラスの女子たちの間に
「誰あの人、かっこよくない?」
というひそひそ話が一気に広がる。
「えー、新学期早々、転校生が来ました。渡辺奏汰君です。今日からうちのクラスになるので、仲良くするように」
「…渡辺奏汰です。転勤族で、色々な場所を回ってきました。…よろしくお願いします」
渡辺君の挨拶は、どこか遠慮がちで、それでいて丁寧だった。彼は自分の席を告げられると、小走りで移動し、私の二つ前の席に座った。
その日の放課後。私は理澄ちゃんと一緒に、音楽室へ向かう途中だった。渡辺君は、教室の片隅で一人、静かに荷物を片付けていた。志帆たちが
「ねえ、渡辺君! 放課後遊びに行こうよ!」
と声をかけているのが見えた。しかし、渡辺君は困ったように微笑むだけで、曖昧に言葉を濁している。
「…ありがとう。でも、今日はちょっと…」
彼はそう言って、逃げるように教室を飛び出していった。私はふと、教室の最後列に目をやった。多田見君が、じっと渡辺君の去った後を見つめていた。その瞳は、獲物を狙う獣のような鋭さではなく、何かを解き明かそうとする学者のような、静かで深い光を宿していた。
翌日から、渡辺君は孤高の転校生になった。頭が良く、運動神経もそこそこあるらしい。女子たちからの誘いも、男子たちのノリの良い誘いも、彼は常に優しい笑顔で、しかし頑なに拒絶し続けていた。彼が休み時間に本を読んでいる姿は、どこか理澄ちゃんが以前、教室で孤立していた頃の空気に似ていた。
ある日の放課後。私は体育館裏へと足を運んでいた。あられの世話をするためだ。そこには多田見君が座っていた。
「多田見君、珍しいね。あられの世話、理澄ちゃんに任せて帰ると思ってた」
「…渡辺を見ている」
多田見君の視線の先には、校舎の渡り廊下の端で、遠くの校門を見つめている渡辺君の姿があった。彼は誰かを待っているわけでもなく、ただ時間をやり過ごすように、じっと立っている。
「渡辺君のこと? なんで?」
「…あいつの孤独は、無直のそれとは違う。理澄の場合は周囲が壁を作っていたが、渡辺は自ら壁を作っている。しかも、その壁はとても脆くて、今にも崩れそうなのに、意地でも補強し続けている」
「どうしてそんなことするの?」
「…過去に、人と離れるのが怖くなるような出来事があったんだろう。いつか必ずいなくなるなら、最初から親しくならない方がいい。…それは、逃げではなく、あいつなりの自衛だ」
「…逃げではなく、自衛か」
多田見君の言葉を反芻しながら、私は遠くの渡り廊下で佇む渡辺君を見つめた。確かに、彼の作る距離感には、誰かを拒絶する刺々しさがない。むしろ、相手を傷つけないように、そして自分自身が傷つかないように、慎重に張り巡らされた薄氷のような境界線を感じる。
「多田見君は、どうして彼にそんなに固執するの?観察対象としては、ちょっと大人しすぎるんじゃない?」
私の問いかけに、多田見君は少しだけ眉を寄せた。彼は手にしていたスマホから目を離すと、立ち上がり、体育館裏の湿った土を靴底で踏みしめた。
「観察対象の優劣を決めた覚えはない。ただ、あいつの視線がどこを向いているのか、それが気になっているんだ」
「視線? 校門の方を向いてるだけじゃん」
「違う。あいつは校門を見ているようで、その先の風景の変化を追っている。…多分あいつは以前もこの町にいた。自分が去った後の場所が、どう変わっているのかを確認したいんだ。自分がいた証が、どれほど早く風化するのかを知るために」
私は背筋が冷えるような感覚を覚えた。多田見君が見抜いたのは、渡辺君の孤独の正体だった。それは単なる寂しさではなく、自分の存在が誰の記憶にも留まらないことへの、諦念にも似た悲しい確認作業だったのだ。
その日から、多田見君の介入が始まった。化学の授業中、多田見君は渡辺君の隣の席が空いていることを確認すると、迷いなくその席へ移動した。そして、実験のペアを組む際、周囲が誰と組もうか迷っている隙に、渡辺君の机をポンと叩いた。
「渡辺。ペアだ」
渡辺君は目を丸くして多田見君を見た。彼にとっては、誰とも関わらずに過ごすのが定石だったはずだ。
「…えっと、多田見君だよね。僕は一人でも…」
「効率が悪い。俺は計算が苦手だ。お前なら手際が良さそうに見える」
あまりに身勝手で、多田見君らしい理屈。渡辺君は、困惑しつつも断りきれず、静かに頷いた。多田見君はそれ以上何も言わず、実験手順の書かれたテキストを渡辺君の前に突き出した。その様子を遠巻きに見ていた志帆たちが、少し驚いたような顔をしている。教室の孤高の転校生が、教室の一匹狼と接点を持った。それだけで、クラスの空気が微かに揺れた。
多田見君の行動は、それだけでは終わらなかった。昼休み、渡辺君がいつものように屋上の階段の踊り場で一人、パンを食べていると、多田見君が唐突に現れた。手に持っているのは、コンビニで買った袋入りのチョコチップクッキー。
「…多田見君?また何か用?」
多田見君は無言でクッキーの袋を一つ、渡辺君の横に置いた。
「半分でいい。食え」
「え、どうして…」
「俺が甘いものを食うとき、誰かと分けないと後で腹を下すという迷信を信じている」
「そんな迷信聞いたことないよ…」
渡辺君の口から、初めて小さな笑い声が漏れた。彼は戸惑いながらも、クッキーを一つ手に取る。多田見君は隣に腰を下ろし、自分もクッキーを口に運んだ。多田見君の頬が、ごくわずかに緩む。
二人は特に会話をするわけではない。ただ、隣り合ってクッキーを食べているだけ。でもその光景は、誰にも邪魔されたくない聖域のような場所を、二人の共有空間へと変えていた。私は遠くの廊下から、その様子を見ていた。多田見君の行動は、渡辺君の離れることへの恐怖を根底から変えようとしているわけではない。ただ、今、ここに誰かがいるという事実を、彼に強制的に突きつけているに過ぎなかった。しかし、その行動は次第に渡辺君の心を溶かしていった。




