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初めて見る顔

 夏休みも残り一週間を切った八月の終わり。空は高く澄み渡り、吹き抜ける風にはわずかな秋の気配が混じり始めている。けれど、アスファルトの熱は一向に冷めることを知らず、蝉の声だけが狂ったように響き渡っていた。

「はあ…、結局宿題の半分も終わってないや」

 買い出しを頼まれていたスーパーからの帰り道、私は重い買い物袋を提げてため息をついた。楓ケ丘の住宅街は、夕暮れ時のオレンジ色に染め上げられている。この時間になると、いつも楓ケ丘中央公園のベンチには、時々姿を見せる多田見君がいるはずだ。人間観察が趣味だなんて、相変わらず変わった人。でも、理澄ちゃんの件や、太陽の家庭の問題を解決して以来、彼に対する私の視線は、ただの変人から不器用な観察者へと少しだけ変化していた。


 公園を通りかかったとき、私は足を止めた。いつも一人でベンチに座っているはずの多田見君が、誰かと一緒にいたからだ。

「…ううっ、…ごめんなさい、透君。私、…どうしても、駄目みたい」

 ベンチに座っていたのは、二十代半ばとおぼしき女性だった。落ち着いた色のワンピースを着ているけれど、どこかやつれた様子で、多田見君の胸に顔を埋めていた。彼女の肩が、激しく上下に揺れている。泣いているのだ。


 驚きで、手に提げていた買い物袋が指からすべり落ちそうになった。透君? あの多田見君を?しかも、彼の胸で泣きじゃくるなんて。どう見ても、ただの知り合いという距離感じゃない。彼女は多田見君の肩を力任せに掴み、逃げ場を求めるように寄りかかっている。


 多田見君はいつも教室で見せる、あの氷のような無表情ではなかった。彼は、彼女の背中を、まるで壊れ物を扱うような慎重さで、ゆっくりと撫でていた。

「大丈夫だよ、早苗(さなえ)お姉さん。呼吸を整えて。無理に話す必要はないから」

 声が、違う。いつも私やクラスメイトに向ける、あの冷たく鋭い声とは違う。どこか掠れていて、驚くほど柔らかい。幼い子供をあやすような、それでいて、長年積み重ねてきた確かな信頼を感じさせる優しい響き。私は息を呑んだ。多田見君が、こんな風に誰かに寄り添えるなんて。彼が誰かのために、こんなにも必死に温度を分け与えている姿なんて、見たことがない。


(…え、何あれ。多田見君、あんな表情できるの?)

 驚きはあった。けれど、不思議と胸が苦しくなるとか、嫌な予感がするといった類のものはない。彼が誰かを救おうとしているなら、それはきっと彼なりの観察の結論なのだろう。でも、あの優しさは、私の知る、観察者・多田見透の枠を大きく踏み出していた。


 私は恐る恐る近づいた。バレないように、音を立てないように。でも、買い物袋のカサカサという音が、静かな公園の夕闇に響いてしまった。

「…っ!」

 多田見君が、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、今までに見たことのないような焦りと、少しの困惑が宿っていた。

「…片原?」


 私の存在に気づいた彼は、慌てたように早苗さんから距離を取ろうとした。けれど、早苗さんは彼のシャツを掴んだまま離さない。彼女は涙で濡れた顔を上げ、私を不思議そうに見つめた。

「あら…。透君のお友達?」

「あ、えと、すみません。通りがかっただけで…」

 私は気まずくなって、その場から逃げ出そうとした。けれど、多田見君が立ち上がり、私の方へ歩いてきた。その顔は真っ赤で、耳の先まで熱を帯びているのが見て取れた。

「お前…なんでこんなところにいるんだよ!」

 いつもより声が上ずっている。彼は私を遮るように、早苗さんの前に立ちはだかった。


「…見てたのか?」

「見ちゃった、かな。ごめんね、お邪魔するつもりはなかったんだけど」

 多田見君は私の言葉を聞くと、視線を右往左往させて、どこを見ればいいのかわからないといった様子で俯いた。あの何事にも動じない多田見君が、今にも爆発しそうなほど狼狽えている。

「その、…これは」

「すごく優しかったね」

 私がにやりと笑って言うと、多田見君はさらに顔を赤くして、私の腕を強引に掴んで公園の出口の方へ引っ張った。

「うるさい!今のことは忘れてくれ!…早苗お姉さんは、昔から俺が知っている人だ。…ただ、少し疲れているだけだ」


「そっか。すごく大事な人なんだね」

 私の言葉に、彼は押し黙った。手は私の腕を掴んでいるけれど、力が入りすぎていて、少し痛い。でも、彼は私のことを突き放すことはしなかった。

「…小さい頃、俺が泣いてばかりいた時、いつも隣でこうして背中を撫でてくれたんだ。…今度は、俺がそれをする番なだけだ。観察とか、そういうのじゃない」

「へえ、優しいんだね、多田見君は」

「…っ、笑うな!」

 彼は私の手首を掴んだまま、夕闇の濃くなる道を早足で歩き始めた。公園のベンチでは、早苗さんがハンカチで涙を拭いながら、少しだけ微笑んでこちらを見送っているのが見えた。


「……勘違いするなよ」

「何を?」

「ただ、…俺が、俺のやり方で恩を返しているだけだ。別に面白いもんじゃない」

 彼の背中を見つめながら、私は思った。多田見君が見ているのは、ただの事実じゃない。その奥にある、誰かの痛みや、救いを求める小さなサインだ。彼は、誰よりも深く、誰よりも温かく、この世界中の人を見つめている。


「ねえ、多田見君」

「…何だよ」

「今度、私もそのお姉さんに挨拶させてよ。早苗さんだっけ?」

 多田見君は立ち止まり、面倒くさそうに溜め息をついた。けれど、その横顔には、さっきまでの焦りはもうなかった。

「…気が向いたらな。…今は、…とにかく、うるさいから早く帰れ」

 彼はそう言うと、私の腕から手を離し、逃げるように公園へと戻って行った。夕陽が沈みきり、街灯が一つ、また一つと点灯していく。夏の終わりは、なんだか少しだけ寂しいけれど、多田見君の背中がいつもより少しだけ大きく見えたような気がした。あんな風に、誰かの痛みを分かち合えるなら、彼の人間観察も、決して悪いものじゃない。


 私は一人、買い物袋を抱え直した。もうすぐ、新学期が始まる。またどんな発見が、この町で待っているんだろう。多田見君が切り取る新しい景色を、私ももう少しだけ、隣で見つめてみたい。そう思いながら、私は夏の湿った風に背中を押されて、家路を急いだ。多田見君の不器用で、けれど確かな優しさが、胸の奥で静かに、けれど熱く、残像のように揺れていた。

(…にしても、あんなに顔真っ赤にして照れるんだ。やっぱり、あの無表情は努力して作ってるのかな)

 そんなことを考えながら小さく吹き出すと、街の灯りが私の帰りを待つように、優しく夜を照らし始めていた。

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