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本物

 終業式の放課後、校門を出る生徒たちの顔はどれも解放感に満ちていた。けれど、私と多田見君、そして太陽の三人が歩く速度は、どこか重い。明日から夏休み。それは多くの高校生にとって待ちに待った天国だが、太陽にとっては、唯一の避難所である学校というシェルターが閉ざされることを意味していた。

「…なあ、別にいいって。明日からは適当にどっかのバーガー屋とかで時間潰すからさ」

 太陽は、いつものように無理に口角を上げて笑ってみせた。けれど、その指先が制服の裾をぎゅっと握りしめているのを、私は見逃さなかった。

「ダメ。一人でいたら、また変なこと考えちゃうでしょ。明日からは毎日、午前十時に図書室集合。午後は体育館裏であられの世話。いい?」

 私が強引に予定を詰め込むと、太陽は困ったように眉を下げた。その横で、多田見君は相変わらず無表情に、手元のスマホの画面をスクロールさせていた。


「…吉岡。明日の午後は、楓ケ丘西公園に来い」

 多田見君が唐突に言った。

「西公園? あそこ、何もないだろ」

「あられの餌を買い足すついでだ。いいから、十四時に来い」

 多田見君の言葉には、反論を許さない独特の重みがあった。


 翌日、約束の十四時。楓ケ丘西公園は、真夏の陽光に焼かれて静まり返っていた。古いブランコと、塗装の剥げた滑り台。近所の子供たちすら避けるような猛暑の中、多田見君はベンチに座って、公園の入り口をじっと見つめていた。

「太陽は、まだだね」

 私が隣に座ると、多田見君は短く

「ああ」

 とだけ答えた。

「ねえ、なんでここなの? あられの餌なら、駅前のペットショップの方が近いのに」

「あそこからなら、吉岡の家の玄関が死角なしで見える。さらに、ここを通るバスの時刻表と、ある人物の行動パターンを照らし合わせれば……」


 多田見君が言葉を切った。公園の入り口に、一人の男が現れた。くたびれたポロシャツに、無精髭。鋭い目つきを周囲に走らせながら歩くその男は、太陽にどこか面影が似ていた。

「…あれ、太陽のお父さん?」

 私が息を呑むと、多田見君は静かに立ち上がった。

「片原、あいつが来る前に太陽をここに呼んだのは、少しだけ時間を稼ぐためだ。お前は、吉岡が来たらあっちの噴水広場で足止めしてろ。いいな」

 多田見君は、迷いのない足取りで男の方へと歩いていった。私は慌てて後を追う。

「ちょっと、待ってよ!」

 太陽の父親は、突然自分たちの前に立ちはだかった高校生二人を、不快そうに睨みつけた。

「なんだお前ら。…太陽の連れか?」

 地を這うような低い声。太陽の腕にあったあの痣を思い出し、私の足が震える。

「吉岡さん。少し、お話があります」

 多田見君の声は、驚くほど冷静だった。

「話だと? ガキに用はねえんだよ。どけ」

 父親が多田見君を突き飛ばそうと手を伸ばす。しかし、多田見君はその手をひらりと避けると、ポケットから一通の封筒を取り出した。


「突然の工場閉鎖、大変でしたね」

 その言葉に、父親の動きがピタリと止まった。

「…なんだと?」

「一ヶ月前から、あなたの家の前に停まっていた社用車が消えた。朝、あなたが家を出る時間は早まったが、作業着の汚れは日に日に薄くなり、最近ではただの私服で、この公園のベンチで一日を潰している」

 父親の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。

「お前…、俺を嗅ぎ回ってたのか!」

「観察していただけです。失業による将来への不安、自尊心の欠如。そのやり場のないストレスが、最も身近で抵抗できない対象、息子さんに向かっている」

「うるせえ! 家族の問題だ、他人が口を出すな!」

 父親が激昂し、多田見君の胸ぐらを掴んだ。私は恐怖で声が出なかった。けれど、多田見君は瞬き一つせず、その父親の目を真っ直ぐに見つめ返した。


「あなたは、前の職場で高度な旋盤加工のチーフを務めていたはずだ。社内報のアーカイブで確認しました。あなたの技術は、本来、人を傷つけるための拳ではなく、精密な部品を作るための指先に宿っているはずだ」

 多田見君が差し出した封筒。その中には、一枚の求人票が入っていた。

「…これは?」

「ここから二駅先の工業団地にある、精密金属工場です。あなたの専門スキルを持つ人員を、急募しています。…条件は一つ。太陽君の長袖を、今すぐ脱がせること」


 父親の手から力が抜けた。彼は震える手で求人票を受け取り、穴が開くほど見つめた。

「…何で、お前みたいなガキが…。…俺のことなんて、誰も見てないと思ってたのに」

「俺は、そこにある事実を繋ぎ合わせただけです。あなたが優秀な技術者であることも、今、道を踏み外しそうになっていることも、すべて事実だ」

 父親は、その場に力なく座り込んだ。ポロポロと、大粒の涙が地面の砂に吸い込まれていく。

「…太陽に、なんて言えばいい。あいつ、俺が怖くて、家でもずっと震えてて…俺、あいつのことが可愛いはずだったのに。仕事がなくなって、怖くて、情けなくて……」

「今からなら、間に合います」

 多田見君の言葉は、決して温かくはなかった。けれど、何よりも実直で、重みがあった。


 その時、公園の入り口から

「多田見、片原ー!」

 と太陽の声が響いた。

 父親はハッとして顔を上げ、慌てて涙を拭った。

「…約束する。二度と、あいつには手を上げない。…ありがとう、本当に」

 父親は求人票を大切にポケットにしまうと、太陽に見つからないよう、公園の裏口から立ち去っていった。数分後、駆け寄ってきた太陽は、不思議そうな顔で私達を見た。

「多田見。お前、誰かと喋ってたか?」

「いや、道を聞かれただけだ」

 多田見君はいつもの無機質な顔に戻り、歩き出した。

「あられの餌、買いに行くぞ。…太陽。明日は、半袖で来い。暑苦しいのは嫌いだ」

 太陽は一瞬、きょとんとした。けれど、多田見君の背中を見つめ、何かを感じ取ったのか、少しだけ、心からの笑顔を浮かべた。

「…おう。分かったよ」


 夕暮れの西公園。長く伸びる三人の影が、アスファルトの上で重なり合う。多田見君の人間観察が、一人の少年の夏を、そして一人の大人の誇りを救った。私は彼の隣を歩きながら、ふと思った。多田見君の瞳は、世界を冷たく見ているんじゃない。あまりにも真っ直ぐに、その熱を、痛みを、可能性を、見つめているだけなのだ。夏の夕凪が、ほんの少しだけ涼しく感じられた。明日からは、太陽が本当の太陽になれる。そんな予感が、胸の奥で温かく広がっていた。

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