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日陰

 梅雨明けの宣言が出た途端、空は遠慮というものを忘れたらしい。校庭の照り返しは殺人的で、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。教室のエアコンもフル稼働しているはずだが、生徒たちの熱気と外からの日差しに押し負けて、空気はどこか生ぬるい。

「あー、マジ暑い。溶ける。アイス食べたい…」

 志帆が下敷きでパタパタと顔を煽りながら、机に突っ伏している。

「お昼に食べたばっかりでしょ。ほら、次は体育だよ。移動しなきゃ」

 私は重い腰を上げて立ち上がった。窓の外を見れば、真っ白な入道雲がそびえ立っている。


 その時、教室の前方で大きな笑い声が弾けた。

「ギャハハ! お前それ、センスなさすぎだろ!」

 声の主は吉岡太陽(よしおかたいよう)君。クラスのムードメーカーで、その名の通り、彼がいるだけで教室の空気がパッと明るくなるような、典型的な人気者だ。バスケ部の期待の新人で、運動神経も抜群。女子からの人気も高く、いつも誰かに囲まれている。


 私は太陽の笑い声を聞き流しながら、自分の体操服を持って教室を出ようとした。…が、ふと、視線を感じて足を止める。斜め後ろの席。多田見君が、いつものように頬杖をついて、じっと前方を見つめていた。その視線の先には、仲間と肩を組んで笑っている太陽がいる。

「多田見君、また誰か見てるの?」

 私が声をかけると、彼はゆっくりと瞬きをして、私に視線を移した。

「片原。お前、吉岡を見てどう思う」

「どう思うって…相変わらず元気だなって感じ? まさに太陽って名前がぴったりだよね」

 多田見君は、相変わらず感情の読めない顔で、もう一度吉岡の方へ目を向けた。

「あいつ、最近おかしいぞ」

「えっ、そう? 全然そんな風に見えないけど」

「お前は表面しか見ていないからだ。よく見ろ。あいつの笑い声、タイミングが少しだけ早い。会話の流れを予測して、面白くなくても笑う準備をしてる。それに…」

 多田見君は少しだけ声を低くした。

「最近、一度も半袖になっていない」


 私は言われて初めて、吉岡の服装に目をやった。この猛暑だ。男子のほとんどは制服のシャツの袖をまくり上げているか、最初から半袖を着ている。けれど吉岡は、律儀に長袖のシャツのボタンを袖口まで留めていた。それだけじゃない。シャツの下には、学校指定の長袖の体操服を重ね着しているのが透けて見えている。

「あー、あれでしょ? 多田見君が知らないだけで、最近の男子って日焼けを気にする人も多いんだよ。太陽、バスケ部だし、あんまり肌を痛めたくないんじゃない?」

「バスケ部、あいつは一週間前から一度も練習に出ていないはずだ」

「えっ…?」

 私は言葉を失った。太陽はバスケが大好きで、朝練も欠かさないことで有名だったはずだ。

「なんで知ってるの?」

「見てたからな。あいつ普通に帰宅部と同じ時間に帰ってるぞ。お前、気付いてなかったのか?…いいから、体育の着替え、少しだけ注意して見ておけ」

 多田見君はそれだけ言うと、立ち上がって一人で更衣室へ向かった。

「見ておけって…私女子なんですけど…」


 体育の授業の前。女子更衣室で着替えながら、私は多田見君の言葉が頭から離れなかった。

 彼は予知能力者でもなければ、超能力者でもない。ただ、私たちが景色として受け流している日常を、少しだけ丁寧に、粘り強く観察しているだけだ。だからこそ、彼の違和感にはいつも無視できない重みがある。


 男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でバレーボールだった。更衣室を出たところで、男子の集団とすれ違う。その中に、やはり長袖の体操服を上下しっかり着込んだ太陽がいた。

「たいよー! お前、そんな格好でサッカーやったら熱中症になるぞ!」

 クラスの男子が冗談めかして太陽の肩を叩く。太陽は

「へーきへーき! 俺、極度の寒がりなんだわ! 脂肪ないからかなー?」

 と、いつものおちゃらけた調子で返している。でも、私は見てしまった。叩かれた肩に一瞬だけ、本当に一瞬だけ、苦痛に歪めた吉岡の表情を。そして、彼が体操服の襟元を、何かに怯えるようにきつく握りしめたのを。


 授業中、私はバレーボールに集中できなかった。グラウンドから聞こえる男子たちの歓声。その中に混じる太陽の声。…おかしい。多田見君の言う通りだ。一度気になり始めると、彼のすべての動きが演技に見えてくる。ボールを追いかける足取りも、どこかぎこちない。転びそうになった時の庇い方が、怪我を恐れているというよりは、何かに触れられるのを拒んでいるような、異様な必死さを孕んでいる。


 授業が終わった。私は女子更衣室を早々に抜け出し、男子更衣室の入り口から少し離れた日陰で待った。しばらくすると、多田見君が出てきた。

「多田見君…」

「…見たか」

「…うん。肩を叩かれた時、すごく痛そうだった。それに、あの長袖。絶対におかしいよ」


 私たちは、最後に出てきた太陽の姿を追った。太陽は一人、ふらふらとした足取りで教室へは戻らず、校舎の裏手にある水道へと向かっていった。私たちは物陰からその様子を伺う。太陽は周りに誰もいないことを確認すると、蛇口を全開にし、頭から水を被った。そして、あまりの暑さに耐えかねたのか、あるいは痛みに耐えかねたのか、震える手で長袖の体操服のボタンを外し、袖を捲り上げた。

「…っ!」

 隣で多田見君が短く息を呑むのが聞こえた。捲り上げられた太陽の腕。そこには、とても階段で転んだなんて言葉では片付けられないほどの、どす黒い痣が無数に広がっていた。新しいものから、黄色く変色し始めた古いものまで。それはまるで、肌の上に描かれた暴力の地図のようだった。さらに、彼が背中の汗を拭おうとシャツを捲り上げた瞬間、そこにはミミズ腫れのような生々しい痕が幾筋も走っていた。


「…あ」

 私の口から、乾いた悲鳴が漏れそうになる。それを、多田見君の手が静かに、けれど強く塞いだ。

「静かにしてろ」

 多田見君の瞳はこれまでに見たことがないほど鋭く、冷たく、それでいて深い怒りを湛えているように見えた。太陽は水を浴び終えると、また手際よく服を整えた。鏡の前で自分の顔を確認する。唇を噛み、一度だけ深く呼吸をする。次に彼が顔を上げた時、そこにはもうクラスのムードメーカーの笑顔が張り付いていた。その豹変ぶりに、私は背筋が凍るような思いがした。

「多田見君、どうしよう。あれ、絶対に…」

「虐待だな。おそらく父親だろう。あいつの家の近所の人間が、夜中に怒鳴り声を聞いたという話を、以前聞いたことがある。当時は聞き流していたが、今の状況と合わせれば確実だ」

 多田見君は、淡々と、けれど確実に事実を積み上げていく。彼は特別な能力があるわけじゃない。ただ、聞き逃してしまいそうな噂や、見落としてしまいそうな綻びを、自分の頭の中で繋ぎ合わせているだけなのだ。


「助けなきゃ。ねえ、先生に言う? それとも警察?」

 私が焦って多田見君の袖を掴むと、彼は首を振った。

「吉岡は、自分が被害者であることを死んでも隠そうとしている。今、無理やり暴けば、あいつにとって自分の居場所すら失うことになるだろう」

「でも、放っておいたらあいつ、本当に壊れちゃうよ!」

 多田見君は少しの間沈黙し、太陽が去っていった方向をじっと見つめていた。

「…片原。明日、あいつを体育館裏に呼べ。猫に会わせるふりをして」

「えっ、多田見君が話すの?」

「……いや、俺の話はあいつには届かない。俺はただ見ていただけだ。冷たい事実を突きつけることしかできない」

 多田見君は私の目を真っ直ぐに見た。

「お前の騒がしさが必要だ。あいつの嘘を、そのお節介さでぶち壊してやれ」


 翌日の放課後。私は心臓の鼓動が太陽に聞こえてしまうのではないかと思うほど緊張しながら、校門へ向かう彼を呼び止めた。本当にこの時間に帰ってたんだ。

「太陽! ちょっと時間ある? 体育館裏で、こっそり猫飼ってるんだけど、見ていかない?」

 太陽は一瞬、足を止めた。その瞳に、一筋の警戒心が走る。

「えー、猫? 片原、そんなことしていいのかよー。バレたら停学かもだぞ?」

「いいのいいの! 一応許可取ってるには取ってるからさ。ほら、あられって名前なんだ。可愛いよ!」

 私は無理やり彼の腕を、なるべく痣を避けてるように引き、体育館の裏へと連れて行った。


 そこには、多田見君が既に待っていた。彼は段ボールの中のあられを、無表情で眺めている。

「お、多田見。お前もいたのか。意外だな、お前が猫なんて」

 太陽はいつもの調子で笑い、あられの頭を撫でようと手を伸ばした。その瞬間、あられが吉岡の長袖の袖口を、遊び半分で甘噛みした。

「いっ…!」

 吉岡が反射的に手を引っ込める。顔が苦痛に歪む。

「あ、ごめん! 大丈夫?」

 私はわざとらしく駆け寄り、彼の袖を掴んだ。

「へーきへーき、ちょっとびっくりしただけ…」

「嘘言わないで」

 私の冷たい声に、吉岡の笑顔が凍りついた。

「…え?」

「太陽、暑くないの? その長袖。…昨日、水道のところで見てたんだよ。あんたの腕も、背中も」


 静寂が、体育館裏を支配した。セミの声だけが、やけに大きく聞こえる。太陽の瞳から、光が消えていく。それは、前に屋上で見た無直さんの瞳に似ていた。

「…見たの?」

 その声は、もう太陽のものではなかった。低く、掠れた、震える少年の声だった。

「…最悪だ。なんでお前らが。…関係ないだろ、お前らには」


 吉岡は後ずさりし、逃げ出そうとした。その背中を、多田見君の声が引き留めた。

「関係はあるぞ。お前がその傷のせいで、クラスで不自然な動きをするたびに気になって仕方ないからな。はっきり言って迷惑だ」

 あまりに多田見君らしい、身勝手で筋の通らない言葉。けれどその言葉に、太陽は思わず足を止めてしまった。

「…なんだよそれ。意味わかんねえよ。俺が、俺がどれだけ必死に…」

 太陽がその場に膝をついた。彼は自分の顔を両手で覆い、嗚咽を漏らし始めた。

「…誰にも、言えなかったんだ。言ったら、全部なくなると思ったんだ。学校での俺も、友達も、全部…親父が、俺のせいで怒ってるんだって…俺が悪いんだって…」


 私は彼に寄り添い、その背中に手を置いた。長袖の体操服越しでも分かる。彼の身体は、ガタガタと震えていた。

「太陽。あんたは悪くない。絶対、悪くないよ」

 多田見君は、少し離れたところで腕を組んで、その光景をじっと見つめていた。彼は相変わらず、慰めの言葉一つかけない。けれど、彼が太陽のわずかな変化を見ていたからこそ、この瞬間が訪れたのだ。夕闇の中、あられが太陽の膝にそっと寄り添った。一人の少年が、自ら作り上げた偽りの太陽を脱ぎ捨て、ただの傷ついた人間として泣いていた。


「…帰るぞ。明日は、少しは涼しくなるはずだ」

 多田見君の淡々とした声が、重い空気を切り裂いた。私達は、泣き止んだ太陽を挟んで、長く伸びる影と共に歩き出した。明日にはもう、夏休みの足音がすぐそこまで迫っていた。

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