革命のエチュード
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光の強さに、私は目を細めた。天気予報の通り、昨日までのじっとりとした湿気を吹き飛ばすような快晴。通学路に咲く紫陽花は、茶色く枯れかけた花弁を夏の陽光に晒し、いよいよ季節の交代を告げている。
教室の扉を開けると、いつもの喧騒が耳を打つ。
「隣子、おはよー! 今日の髪、なんか気合入ってない?」
友達の志帆が、教室の入り口で声をかけてくる。
「別に普通だよ」
と笑いながら、真っ先に自分の席、ではなく教室の斜め後ろの席へと視線を走らせた。
そこには、いつも通り俯いて座る無直さんの姿があった。でも、昨日までと決定的に違うのは、彼女の膝の上で細い指先が小さくリズムを刻んでいることだ。
「おはよう、無直さん」
努めて自然に、昨日より少しだけ柔らかいトーンで声をかけると、彼女はびくっと肩を揺らした。ゆっくりと上がった視線。眼鏡の奥の瞳には、まだ怯えの色が残っていたけれど、私と目が合った瞬間、ほんの少しだけ、本当に一瞬だけ、和らいだ。
「…おはよう、片原さん」
その声を聞いて、私は確信した。昨日の屋上での出来事は、悪い夢なんかじゃなかったんだ。
「ねえ、二人とも! 今日のお昼さ、無直さんも一緒に食べない?」
私の突然の提案に、志帆ともう一人の友達、中野朋が、一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。無理もない。これまで、私達と無直さんの間には、目に見えない壁が存在していたのだから。
「えっ、無直さんって、いつも本読んでる…?」
「そう! 実は昨日、ちょっと話したんだけど、いい子でさ。ね、いいでしょ?」
私が強引に話を詰めると、志帆と朋は
「隣子がそう言うならいいけど」
と、屈託なく笑った。彼女たちのこういう、深く踏み込みすぎない明るさが、今はとても頼もしかった。無直さんは顔を真っ赤にして固まっていたけれど
「大丈夫、みんな優しいから」
と小声で囁くと、消え入りそうな声で
「…よろしくお願いします」
と頭を下げた。
その様子を、斜め後ろの席から、じっと見つめている視線があった。多田見君だ。彼は相変わらず、頬杖をついて、何かを鑑定するような冷めた瞳でこちらを見ている。私は彼に向かって、こっそりとピースサインを送ってみたけれど、彼は不愉快そうに視線を逸らし、窓の外へと顔を向けてしまった。
お昼休み、中庭のベンチは女子高生特有の賑やかさに包まれていた。志帆たちの弾丸トークに、無直さんは案の定、圧倒されていた。お弁当を小さな一口で食べる彼女の姿は、まるで周囲を警戒する小動物のようだ。
「無直さんって、趣味とかあるの? 休み時間いつも本読んでるよね」
朋の何気ない質問に、無直さんは俯いたまま、絞り出すように答えた。
「…ピアノを、少し。両親が、その、音楽家でピアノとヴァイオリンをしていて…」
「えっ、すご! もしかして無直さんも弾けるの?」
「…はい。小さい頃から、ずっと」
その場の空気が、パッと華やいだ。
「見たい! 聴きたい! ね、放課後、音楽室行ってみない?」
志帆たちの純粋な好奇心は、時に残酷なほど真っ直ぐだ。でも、今の無直さんには、その真っ直ぐさが必要なのだと、私は直感した。
放課後。西日の差し込む音楽室の扉を開ける。埃の舞う空気の中に鎮座するグランドピアノの前に、無直さんが座った。彼女が鍵盤に指を置いた瞬間、教室の温度が数度下がったような錯覚に陥った。奏でられたのは、ショパンの『革命』。激しく、それでいて一音一音が結晶のように鋭い旋律。普段の、消えてしまいそうな彼女からは想像もつかないような、激しい感情の奔流が音楽室を満たしていく。志帆達が息を呑むのが分かった。私も、鳥肌が立つのを抑えられなかった。昨日、死の淵にいた彼女の中に、こんなにも力強く、美しい生命の灯火が燃えていたなんて。
最後の一音が空気に溶けて消えた後、静寂を破ったのは、志帆の叫び声だった。
「すご…っ! なにこれ、プロじゃん! 無直さん、天才だよ!」
友達が無直さんの周りに駆け寄り、口々に賞賛の言葉を浴びせる。無直さんは驚いたように目を見開き、それから、今まで見たこともないような、照れたような、それでいて誇らしげな微笑みを浮かべた。その笑顔を見た時、私の胸の奥に溜まっていた気付けなかったことへの罪悪感が少しだけ解けていくのが分かった。
興奮冷めやらぬ友人たちと別れ、私は一人、体育館の裏手へと向かった。そこには、既に先客がいた。体育館の壁に背を預け、地面に置かれた段ボール箱を眺めている影。多田見君だ。
「多田見君、お疲れさま。…見てた?今日の無直さん」
私が隣に並ぶと、多田見君は視線だけをこちらに向け、すぐにまた子猫に戻した。
「…騒がしいな、お前は」
「褒め言葉として受け取っとく。無直さんね、ピアノがすごく上手なんだよ。友達とも仲良くなれそうだし、本当に、昨日はありがとうね」
私が素直な気持ちを伝えると、彼はふんと鼻で笑った。
「感謝される筋合いはない。俺はただ、自分の通う学校が、訳アリ物件になるのが嫌だっただけだ」」
あまりに多田見君らしい、情緒の欠片もない言い草に、私は思わず吹き出した。でも、その言葉の裏側に、彼なりの不器用な優しさがあることを、今の私は知っている。
「にゃあ」
段ボールの中から、小さな鳴き声がした。三毛の子猫が、おぼつかない足取りで外へ這い出してくる。そこへ、音楽室から戻ってきた無直さんが、息を切らしてやってきた。
「…あ、二人とも」
「無直さん! ほら、あられが呼んでるよ」
無直さんは、子猫を愛おしそうに両手で掬い上げた。
「…この子、私が責任を持って育てます。学校の許可は、担任の先生に相談してみたら『自分が管理するなら』って、特別に許可をいただけて。いじめのことも、話したんです」
彼女の声には、昨日までの絶望ではなく、明日のための責任が宿っていた。
「…良かった。多田見君のおかげで、この子も無直さんも、居場所が見つかったんだよ」
私が多田見君の肩を小突くと、彼は迷惑そうに数センチ距離を取った。
「……勝手に物語にするな。俺は、そこにあるものを確認してただけだ。彼女がピアノを弾くことも、あの子猫が腹を空かせていることも、事実としてそこにあった。それだけだ」
「はいはい。観察者さんは、今日も実直ですねぇ」
多田見君は無表情のまま、少しだけ目を細めた。
「…片原」
「ん?」
「お前の声のトーン、昨日よりちょっと高い。うるさいから、明日は少し音量かトーンを下げろ」
「そう?…っていうか、やっぱりあんた、私のことも観察してるんだ!」
「…さあな」
多田見君は背を向け、夕闇に染まり始めた校舎へと歩き出す。無直さんは子猫を抱きしめ、くすくすと笑っている。体育館の裏、湿った土の匂い。茶色く枯れた紫陽花の向こう側で、いよいよ本格的な夏の羽音が聞こえ始めていた。
「じゃあ、また明日ね!」
遠ざかる背中に叫ぶと、多田見君は一度だけ、面倒くさそうに片手を上げた。明日もきっと、暑くなる。でもその暑さも悪くない。私は、無直さんと子猫の横顔を見つめながら、そんなことを考えていた。




