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硝子の冠

 十月の楓ケ丘高校は異様な熱気に包まれていた。月末に控えた文化祭「楓祭」の準備が本格始動したからだ。毎週月曜日に行われる全校朝礼の壇上、マイクの前に立つその人を見て、体育館中の女子から小さく吐息が漏れる。

「今年の文化祭テーマは『自由』です。皆さん一人ひとりが、既存の枠に囚われず、自分だけの表現を見つけてほしい。生徒会は、そのための努力を惜しみません」

 生徒会長、神崎誠一郎(かんざきせいいちろう)先輩。成績優秀、スポーツ万能、おまけに男前と呼ぶのに相応しいキリっとした風貌。彼は学校中の憧れを一身に背負う完璧な偶像だった。


 隣で腕を組んでいた多田見君が、ふっと視線を落とした。

「片原、あいつの手元を見ろ」

「えっ、手?…普通に原稿持ってるだけじゃない?」

「いや、左手の親指だ。原稿の端を一定の圧力で押し込み、離す。三秒に一度。まるでカウントダウンでもしているみたいだな」

 言われて目を凝らすと、確かに会長の指先が微かに動いている。演説は完璧。声も凛としていて、少しの揺らぎもない。それなのに、その指先だけが、何かを必死に堪えるように痙攣していた。

「自由、か。皮肉だな」

 多田見君が独り言のように呟いた。その瞳は、熱狂する生徒たちではなく、壇上の偶像が纏う、目に見えないほど薄い亀裂を凝視していた。


 数日後の放課後。私は約束した理澄ちゃんとの勉強のため、図書室へ向かっていた。途中で、同じく図書室へ向かう多田見君と出くわし、なんとなく二人で歩くことになった。夕暮れの校舎は、文化祭準備の喧騒で騒がしいはずなのに、進路指導室や特別教室が並ぶ三階の奥だけは、奇妙なほど静まり返っていた。

「…待て。音がする」

 多田見君が足を止めた。

「音?準備の音でしょ?」

「違う。これは紙を破る音だ。…それも、かなりの速度で」

 彼が指差したのは、普段は使われていない、進路相談用の予備教室だった。薄暗い廊下から、半開きになったドアの隙間を覗き込む。夕陽が射し込む教室の真ん中で、神崎会長が立っていた。机の上には山積みの紙。先輩はそれを一枚ずつ手に取り、まるで精密機械のような手つきで、縦に横に、細かく細かく引き裂いていた。裂かれた紙が、彼の足元に雪のように積もっている。


 ふと、床に落ちた一片が目に入った。そこには、赤ペンで大きく書かれた『100』の数字が見えた。

「…満点の、答案用紙?」

 私の呟きが、静寂を破ってしまった。神崎会長の手が止まる。彼はゆっくりとこちらを振り返った。逆光で表情は見えない。けれど、その瞳に宿ったのは、恐怖に近い焦燥だった。

「誰だ!…確か、君は一年の多田見君か。それに片原さん」

 会長は咄嗟に破片を隠そうとしたが、もう遅い。床は完璧の残骸で埋め尽くされている。


「神崎先輩、失礼します」

 多田見君は、慇懃無礼に一礼した。

「図書室へ向かうところ、お見かけしました。随分と、丁寧なシュレッダー作業をなさっているのですね」

「多田見君…っ」

 先輩の顔が歪んだ。あの朝礼で見せた、余裕のある微笑みはどこにもない。

「…忘れてくれ。これは、ただの整理だ。もう必要のない過去の記録を片付けていただけだ」

「過去、ですか。昨日の実力テストの答案も含まれているようですが。」

 多田見君が静かに歩み寄り、床に落ちた紙片を拾い上げた。

「神崎会長。あなたは毎日、この学校という名の牢獄で、自分の価値を刻んでいる。百点という数字がなければ、あなたという人間は、存在してはいけないことになっている。…違いますか?」

「…勝手なことを言うな!」

 先輩が、机を激しく叩いた。その衝撃で、積まれていた答案がバラバラと崩れ落ちる。

「君に何がわかる!神崎家の長男として、この学校の生徒会長として…僕に失敗なんて許されないんだ。一ミリの綻びも、一点の減点も!僕は、皆が望む完璧な神崎誠一郎であり続けなきゃいけないんだよ!」


 先輩の叫びが、無人の教室に虚しく響く。

「そうだ。…これを見てよ」

 先輩は、震える手でスマートフォンを取り出し、画面を私たちに突きつけた。そこには、家族グループのメッセージが並んでいた。

『今度の模試も当然トップね』

『誠一郎ならできて当たり前』

『楓ケ丘の生徒会長として、模範的な振る舞いを忘れないように』

 温かさの欠片もない、冷徹な文字列。

「僕が僕でいるためには、この紙きれに書かれた数字を更新し続けるしかない。でも、破り捨てずにはいられないんだ。これが、僕を縛り付ける鎖に見えて…」

 先輩は、そのまま崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。両手で顔を覆い、必死に嗚咽を堪えている。私は、どう声をかけていいかわからず立ち尽くしていた。完璧だと思っていた先輩の正体が、今にも壊れそうな薄氷の上で踊る、一人の怯えた少年だったなんて。


 多田見君は、相変わらず無表情だった。けれど、彼は鞄から一袋の飴を取り出し、神崎会長の机に置いた。

「糖分を摂ってください。今のあなたの脳は、著しく疲弊している」

「多田見君…」

「会長。文化祭のテーマは『自由』だと言いましたね。なら、一つ提案があります。一生徒としての意見だと思って聞いてください」

 多田見君は窓の外、夕闇に沈みかけたグラウンドを見つめた。

「あなたは、皆に『自分だけの表現を見つけろ』と言った。なら、あなたがまずそれを証明すべきだ。満点の答案を破り捨てるのがあなたの表現だと言うなら、それを全校生徒の前でやればいい」

「何を…馬鹿なことを」

「できませんか?なら、せめて一カ所だけでいい。次の演説の原稿、一言だけ、わざと噛んでください」

「えっ?」

 私も、先輩も、同時に多田見君を見た。

「完璧の中に、あえて失敗を混ぜる。それが、あなたが自分を取り戻すための、最初の一歩になるはずだ。…あなたが人間であることを、あなたが一番に認めてやるべきだ」


 文化祭当日。開会式の壇上に立つ神崎先輩は、相変わらず凛としていた。けれど、彼の指先はもう、原稿を三秒に一度押し込むことはなかった。

「…皆さん、文化祭を楽しんで…」

 そこで、会長が言葉を止めた。一瞬の沈黙。全校生徒が息を呑む。

「…っ、楽しんでくだしゃい」

 噛んだ。あの完璧な生徒会長が、あろうことか一番大事な挨拶で、噛んだのだ。会場が、一瞬の静寂のあと、温かい笑いに包まれた。

「あはは!会長、今噛んだよね?」

「意外と可愛いとこあるじゃん!」

 先輩は、真っ赤な顔をして、でも、どこか晴れ晴れとした表情でマイクを握り直した。

「…失礼。噛みました。…でも、失敗しても、世界は終わりませんでした」

 その言葉に、拍手が沸き起こる。


 私は、体育館の隅に立つ多田見君を見た。彼は拍手もせず、ただ静かに、神崎先輩の歩幅を確認していた。

「片原、見ろ。会長の肩の線が、少し下がった。緊張が解けている証拠だ」

「…多田見君。あんたの人間観察って、本当に性格悪いけど…時々、すごく優しいよね」

 多田見君は、ふんと鼻を鳴らした。

「俺はあられの餌を買いに行く。騒がしい人混みは嫌いだ」

 私は、足取りが軽くなった神崎先輩の背中と、相変わらず無愛想な観察者の背中を交互に見て、小さく笑った。


 楓ケ丘の秋空は、どこまでも高く、自由だった。完璧じゃなくてもいい。破り捨てた答案の破片は、いつか新しい自分を描くための、真っ白なキャンバスになる。多田見君の瞳が捉えたその事実は、私の心の記録帳にも、しっかりと刻み込まれた。

「待ってよ、多田見君!私も一緒に行く!」

 夕暮れの風が、私たちの間を吹き抜けていった。明日の空が、今日よりも少しだけ広く見える気がした。

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