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なにみてる?

 私の名前は片原隣子(かたはらりんこ。どこにでもいる高校一年生だ。成績は中の上…いや、中の中。部活で全国を目指しているわけでもない。私立楓ケ丘高等学校という、名前だけはちょっとお洒落な学校に通う、ごくごく一般的な女子高生。友達とはお喋りが尽きないし、家族ともほどほどに仲良し。人間関係の悩みなんて、明日のお昼を購買のパンにするかお弁当にするか、そのくらいのものだ。毎日が穏やかで平凡。今日も帰り道には、燃えるような夕焼けと、しっとり濡れた紫陽花が綺麗に咲いている。


 でも、最近ひとつだけ気になること、いや、気になる人がいる。といっても、少女漫画みたいな甘酸っぱい話じゃない。もっと純粋で、奇妙な興味。ターゲットは、クラスメイトの多田見君。多田見透(ただみとおる)君。

 入学から約二か月。教室にはもう、見えない境界線で区切られたグループができあがっていた。私もいつものメンバーと笑い合って過ごしているけれど、多田見君は、そのどの輪にも属していない。休み時間もお昼休みも、彼はいつも自分の席に座って、本を読むでもなく、スマホをいじるでもなく、ただぼーっとしている。


 彼を意識し始めたのは、五月の頭の席替えがきっかけだった。

「私、片原隣子。よろしくね」

 隣の席になった私は当たり障りのない普通の挨拶をした。

「…ん。よろしく」

 返ってきたのは、温度の低い声。しかも、視線はこちらを1ミリも掠めない。ムッとした私は、彼が凝視している先を追いかけてみた。けれど、そこには楽しそうに談笑するクラスメイトたちがいるだけ。何?あんなに熱心に見ちゃって。変なの。

 翌朝、ちょっとしたリベンジのつもりで、私は昨日より3トーンくらい声を張ってみた。

「多田見君、おはよー!」

「…おはよう」

 やっぱり、目は合わない。彼の瞳は、真っ直ぐに教室のどこか一点を射抜いている。その先にはクラスメイト。確信した。彼は、クラスメイトを観察しているんだ。

「ねえ、何見てるの?」

 覗き込むようにして聞いてみると、彼は短く

「…別に」

 とだけ答えた。冷たい。でも、なんだか謎のベールを一枚剥がしたような気がして、私は密かな満足感に浸ってしまった。それからというもの、私の日課は人間観察をする多田見君を観察することになった。


 観察を続けて分かったことがある。多田見君の視線が、特定の女の子で止まる頻度が高いこと。相手は無直理澄むじかりすみさん。長い黒髪に眼鏡をかけた、いかにも図書室の主といった雰囲気の物静かな子だ。まさか、多田見君のタイプなの…?そんな考えもよぎったけれど、彼の瞳に宿る熱は、恋心というよりはもっと、剥製を鑑定する学者のような、鋭くて無機質なものに思えた。


 季節が移ろい、通学路の紫陽花が茶色く色褪せ始めた頃。その日は、湿った空気が廊下にまとわりつくような、重たい放課後だった。帰宅部の私が鞄を肩にかけようとした、その時。ずっと窓の外を見ていた多田見君が、唐突に私の手首を掴んだ。骨張った指の温度に、心臓が跳ね上がる。

「来て」

 抗う隙を与えない、静かで切迫した声。彼はそのまま私を連れ出し、校舎の隅にある埃っぽい掃除用具入れへと押し込んだ。

「ちょっと、いきなり何!? 狭いんだけど!」

 叫ぼうとした私の口を、彼の掌が塞ぐ。至近距離。暗闇の中で、多田見君の瞳だけが、獲物を狙う獣みたいに鋭く光っていた。

「静かに。…来るから」

「来るって…誰が…?」

 教室の時計の針が進む音さえ聞こえそうな沈黙。やがて、下校を促すチャイムが遠くで溶けて消え、校舎が静寂に包まれた頃。トントンと重力に逆らうような、不安定で、今にも崩れそうな足音が階段を上ってきた。掃除用具入れの隙間から見えたのは、無直さんだった。彼女の長い黒髪が、まるで重い鎖のように彼女の身体を地面へ引き摺り込もうとして揺れている。彼女は、普段は鍵がかかっているはずの屋上の扉へと吸い込まれていった。その瞬間、多田見君が弾かれたように飛び出した。

「片原、止めて!」

 訳も分からず、私は彼の叫びに背中を押されて走り出した。重い鉄の扉が、軋んだ音を立てて開く。目に飛び込んできたのは、毒々しいほどに赤黒く染まった夕空。そして、フェンスの向こう側へ、今まさに最後の一歩を踏み出そうとしている彼女の背中。

「待って! 無直さん!」

 必死に手を伸ばし、彼女の制服の裾を掴んだ。

 無直さんは、スローモーションのようにゆっくりと振り返った。眼鏡の奥、その瞳は空っぽで、どんな光も反射しない。

「…どうして。誰も、見ていないはずなのに」

 消え入りそうな掠れ声。

 後ろから追いつき、肩で激しく息を乱しながら、多田見君がまっすぐに彼女を見つめて言った。

「見てたよ。ずっと」


 その言葉が、凍り付いていた屋上の空気を震わせた。無直さんの身体から、ふっと糸が切れたように力が抜ける。私は咄嗟に彼女の細い肩を抱き寄せ、そのままアスファルトの床に一緒に座り込んだ。

「う、あ……っ……」

 彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。私の制服の胸元に顔を埋め、声を押し殺して泣き続ける無直さん。その背中はあまりに小さくて、今までどれだけの孤独を背負ってきたのかと思うと、胸が締め付けられるようだった。私は彼女の背中を、ゆっくり、ゆっくりとさすり続けた。

「大丈夫、大丈夫だよ。無直さん」

 私の平凡な日常が、一瞬で色を変えていく。でも、今のこの温度は本物だ。


 やがて、しゃくり上げる声が落ち着くと、無直さんは消え入りそうな声で語り始めた。中学の頃から続いていた、陰湿ないじめ。高校に入ってもそれは形を変えて彼女を追い詰め、ついに今日、その限界を超えてしまったのだという。私は鼻の奥がツンとした。こんなに近くにいたのに、私は彼女の絶望に気づけなかった。ここで一つ疑問が浮かぶ。

「…でも、多田見君。どうして分かったの?」

 私は、少し離れたところで立ち尽くしている彼を見上げた。彼は相変わらず無表情だったけれど、その瞳はどこか遠くを見ているようだった。


「…来て」

 多田見君はそれだけ言うと、踵を返して歩き出した。私と無直さんは顔を見合わせ、戸惑いながらも彼についていく。夕闇が深まる校舎を抜け、彼が案内したのは体育館の裏手。湿った土の匂いと、生い茂る雑草の影。そこには、雨風を凌ぐように置かれた小さな段ボール箱があった。

「これ…」

「…あ」

 無直さんが小さく声を漏らす。

 覗き込むと、中には丸まって眠る一匹の子猫。そして、驚くほど大量のキャットフードの袋と、白い封筒が一通。多田見君が無言でその封筒を差し出した。私が震える手で中身を取り出すと、そこには無直さんの、丁寧な字でこう記されていた。

『この子には、何も罪はありません。どうか、優しい誰かに届きますように。勝手なお願いでごめんなさい』

「君がをここに封筒を置くのを見ていた。だから、今日がその日だと分かったんだ」

 多田見君が、淡々とした、けれど拒絶のない声で言った。


 私は手紙と子猫、そして多田見君を交互に見た。彼はただの変人じゃなかった。誰とも関わらない場所から、誰よりも深くこの教室の命の揺らぎを凝視していたんだ。

「…多田見君、あんた、本当に……」

 言葉が詰まる。呆れるほどに不器用で、恐ろしいほどに純粋な、彼の人間観察。無直さんは、子猫を愛おしそうに撫でながら、また静かに涙をこぼした。今度の涙は、さっきの絶望とは違う、温かい色をしているように見えた。

「ふふっ…」

 感心を通り越して、私はなんだか可笑しくなってしまった。彼はヒーローになりたかったわけじゃない。ただ、誰よりも実直に、そこにある命を見つめていただけなのだ。夕闇の中、三人の影が体育館の壁に長く伸びている。

「ねえ、明日からは私も一緒に見ていい?」

 私の問いかけに、多田見君は少しだけ眉を寄せ、無直さんは眼鏡の奥で小さく微笑んだ。

「帰ろう」

 多田見君の淡々とした声に促され、私たちは歩き出す。茶色く萎れかけた紫陽花の道。明日にはもう、梅雨が明ける予感がした。

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