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石の記憶

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/15

 その石碑は、村外れの丘の上にあった。


 誰が建てたのか、いつからあるのか、誰も知らなかった。ただ、村人たちは代々言い伝えてきた。


「あの石碑には触れるな。近づくな。ましてや、壊そうなどと考えるな」


 理由は誰も知らなかった。ただ、恐れていた。


 石碑には、古い文字で何かが刻まれていた。風化して読めなくなっているが、かろうじて一行だけ判読できた。


『汝、破壊せし者は、破壊されん』


 田村健一、四十五歳は、その警告を無視することにした。


 十年前、田村は村で一番の実業家だった。


 建設会社を経営し、この村を発展させてきた。道路を敷き、橋を架け、ショッピングモールを建てた。


 でも、十年前のあの事件で、すべてが崩れた。


 違法な産業廃棄物の投棄。田村の会社が、村の裏山に有害物質を埋めていたことが発覚した。


 土壌は汚染され、川は毒され、三人の子供が病気になった。


 田村は逮捕され、会社は倒産し、家族は離散した。


 そして、十年の刑期を終えて、今日、村に戻ってきた。


 誰も彼を歓迎しなかった。道ですれ違う人々は、目を逸らした。


 かつての部下だった男は、田村に唾を吐きかけた。


「お前のせいで、この村は終わった」


 その夜、田村は酒に溺れた。


 なぜ、自分だけが責められるんだ? 村の発展のために働いたのに。あの投棄だって、コストを削減するためだった。村のためだったんだ。


 でも、誰もそれを理解しない。


 田村は、全てを恨んだ。村を。人々を。そして——


 あの石碑を。


 あの石碑がなければ、村人たちはもっと合理的だったはずだ。あんな古臭い迷信に縛られず、進歩を選んだはずだ。


 酔った勢いで、田村は倉庫からハンマーを持ち出した。


 深夜、丘に登った。


 月明かりの下、石碑が立っていた。


『汝、破壊せし者は、破壊されん』


「ざまあみろ」


 田村は、ハンマーを振り上げた。


 そして、石碑を叩いた。


 一度、二度、三度。


 何度も、何度も。


 石碑は次第に砕けていった。欠片が飛び散り、粉になった。


 田村は笑いながら叩き続けた。


 この村の象徴を、迷信を、すべてを破壊してやる。


 ついに、石碑は完全に粉々になった。


 田村は両手で粉を掬い上げ、空に向かって投げた。


「ざまあみろ!」


 粉は風に乗って、空高く舞い上がった。


 そして——雲になった。


 翌朝、村中が騒然としていた。


 石碑が破壊されている。


 村人たちは丘に集まり、呆然と石の残骸を見つめていた。


 村長が、田村の家にやってきた。


「田村さん、あなたですか?」


 田村は、シラを切った。


「何のことです?」


「石碑を壊したのは、あなたでしょう」


「証拠があるんですか」


 村長は、田村の手を見た。


 ハンマーで叩いた時についた、石の粉。手のひらに、まだ残っていた。


「これは……」


「田村さん、あなたは十年前も、隠しましたね。産廃の投棄を」


 村長の目は、悲しみに満ちていた。


「あなたはいつも、何かを壊して、隠して、そして逃げる。でも、いつか——」


「いつか、何だ?」


「いつか、壊したものが、あなたに返ってくる」


 田村は笑い飛ばした。


「迷信ですよ。そんなもの」


 でも、その日の午後から、奇妙なことが起き始めた。


 空に浮かんでいた雲——石碑の粉でできた雲が、次第に色を変えていった。


 灰色から、黒へ。


 そして、雨が降り始めた。


 いや、雨ではなかった。


 細かい砂のようなもの。石の粉だった。


 それが、地上に降り注いだ。


 最初、田村はただの砂だと思った。


 でも、その砂は普通ではなかった。


 呼吸するたびに、鼻から肺に入り込んできた。


 咳が止まらなくなった。


 医者に診てもらったが、原因不明だと言われた。


「肺に、何か異物が……でも、レントゲンには映らない」


 三日後、息苦しさが増した。


 鏡を見ると、顔色が土気色になっていた。


 そして、田村は気づいた。


 肺の中で、何かが固まっていく感覚。


 石の粉が、再び固形化しているんだ。


 田村は恐怖に駆られた。


 あの石碑の粉が、自分の体の中で元に戻ろうとしている。


 一週間後、田村は立ち上がることもできなくなった。


 呼吸が、ほとんどできなかった。


 肺が、石で満たされていく。


 医者は首を傾げた。


「こんな症例は見たことがない。まるで、肺の中に鉱物が生成されているようだ」


 田村は、病床で思い出していた。


 十年前、産廃を埋めた時。


 有害物質が土壌に染み込み、やがて地下水を汚染し、それを飲んだ子供たちが病気になった。


 自分が土に埋めたものが、巡り巡って人を傷つけた。


 そして今、自分が空に投げた石の粉が、巡り巡って自分を殺そうとしている。


 因果応報。


 破壊したものは、必ず戻ってくる。


「ごめん……なさい……」


 田村は、誰に向かってでもなく呟いた。


 子供たちに。村人たちに。そして、石碑に。


 でも、もう遅かった。


 二週間後、田村健一は死んだ。


 死因は「肺の石灰化」。


 解剖の結果、肺の中に大量の鉱物質が発見された。その成分は——あの石碑と、全く同じものだった。


 田村の遺体は、村の墓地に埋められた。


 誰も弔問には来なかった。


 ただ、村長だけが、墓の前で言った。


「田村さん、あなたは最後まで、自分が壊したものの重さを理解できなかった」


 時が流れた。


 田村の遺体は腐敗し、土に還った。


 骨も溶け、すべてが消えていった。


 でも——肺の中にあった石だけは、残った。


 それは土の中で、ゆっくりと形を変えていった。


 小さな石の塊が、少しずつ大きくなっていく。


 一年、二年、三年。


 そして、十年後——


 田村の墓の真上、丘の上に、新しい石碑が立っていた。


 いや、「新しい」わけではなかった。


 それは、田村が破壊したあの石碑と、全く同じものだった。


 同じ形。同じ大きさ。同じ文字。


『汝、破壊せし者は、破壊されん』


 石碑は、元に戻っていた。


 まるで、何も起きなかったかのように。


 その石碑を見上げる男がいた。


 四十歳くらいか。


 彼の名は、木下竜也。


 田村健一の会社で働いていた。そして、産廃投棄の実行犯の一人だった。


 でも、彼は罪を逃れた。すべての責任を田村に押し付けて。


 その後、木下は別の街で建設会社を立ち上げた。成功した。金持ちになった。


 でも、最近、昔のことが気になって、この村を訪れた。


 そして、石碑を見つけた。


「これが、あの有名な石碑か」


 村人から聞いた話を思い出す。


 十年前、田村健一がこの石碑を破壊した。そして、不可解な死を遂げた。


「迷信だろう」


 木下は笑った。


 自分は田村とは違う。もっと賢い。もっと強い。


 でも——この石碑が、何だか気に入らなかった。


 自分の過去を責めているような気がした。


「邪魔だな」


 木下は、車のトランクからハンマーを取り出した。


 念のため、いつも積んである。


 夜になるのを待った。


 そして、誰もいない丘に登った。


 月明かりの下、石碑が立っていた。


『汝、破壊せし者は、破壊されん』


「ざまあみろ」


 木下は、ハンマーを振り上げた。


 そして、石碑を叩いた。


 一度、二度、三度。


 何度も、何度も。


 石碑は次第に砕けていった。欠片が飛び散り、粉になった。


 木下は笑いながら叩き続けた。


 過去を、罪を、すべてを破壊してやる。


 ついに、石碑は完全に粉々になった。


 木下は両手で粉を掬い上げ、空に向かって投げた。


「ざまあみろ!」


 粉は風に乗って、空高く舞い上がった。


 そして——雲になった。


 翌朝、空は曇っていた。


 灰色の雲が、丘の上を覆っていた。


 木下は、何も知らずに車で街へ戻った。


 でも、その日の午後、雨が降り始めた。


 いや、雨ではなかった。


 細かい砂のようなもの。


 それが、地上に降り注いだ。


 木下は、深く息を吸い込んだ。


 そして、肺の奥に、何かが入り込んでいくのを感じた。


 数日後、彼は咳をし始めた。


 数週間後、病院のベッドに横たわっていた。


 医者は首を傾げた。


「こんな症例は……十年前に一度だけ……」


 木下の肺は、ゆっくりと石になっていった。


 そして、三ヶ月後、彼は死んだ。


 彼の遺体は、村の墓地に埋められた。


 田村健一の墓の、すぐ隣に。


 時が流れた。


 木下の遺体も腐敗し、土に還った。


 でも——肺の中にあった石だけは、残った。


 それは土の中で、ゆっくりと形を変えていった。


 そして、また十年後——


 丘の上に、石碑が立つだろう。


 同じ文字を刻んで。


『汝、破壊せし者は、破壊されん』


 永遠に。


 次の男が来るまで。


 そして、次の男も、同じ運命を辿るだろう。


 破壊し、破壊され、石に還る。


 その繰り返し。


 永劫回帰。


 石碑は、いつまでも立ち続ける。


 人間の愚かさを、刻み続けるために。


(了)

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