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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

溶けない死体

作者: 弓庭柔悟
掲載日:2026/02/06

その日の山は、やけに静かだった。




夏の終わり、標高一二〇〇メートルの黒山。


登山道の脇を流れる渓流は透明で、石の隙間を縫うように水が走っている。


だが、いつもと流れが違う気がする。




「……これ、人ですよね」




そう言ったのは、県立蒼陵高校二年の三浦遥だった。


川の浅瀬に横たわる彼は、返事がない。顔は水に沈み、服は山登り用のジャケット。


だが、奇妙なことに――




「腐臭が、ない」




隣で屈み込んだのは、大学生の久我 恒一。


国立理工大の化学科三年生で、今日は高校の科学部向けの合同フィールドワークの引率役としてこの山に来ていた。




「死後硬直がほぼない、少なくとも半日は経ってるはずだよな……?」




真夏の山中で一日。本来なら、腐敗臭が出始め、ガスで腹部が膨張しかけているはずだ。


だが死体は、まるで時間が止まったかのように静かだった。




――警察が到着するまでの一時間。


久我は、川と死体を観察し続けていた。




水温は摂氏一六度。上流に天然の石灰岩層。そして、川底に沈殿する白い粉末。


「……なるほど」


彼は、小さく呟いた。


被害者は、久我と同じ大学、同じ学科の理学部院生、高瀬 恒一郎。研究室も隣だった。


死因は「溺死」。外傷なし。争った形跡なし。事故として処理されかけていた。




「でも、おかしいんです」




遥は、警察署の会議室でそう言った。


科学部として事情聴取を受けている最中だった。




「死体が、保存されすぎてる。あの川、何か入ってます」




刑事は苦笑した。




「山の水は冷たいからな」




「それだけじゃありません。脂肪が分解されていなかった」




久我が、口を挟む。




「通常、溺死体は水中で脂肪鹸化が起きます。特に山の冷水ならなおさら。でも、あの死体にはそれがなかった」




刑事の表情が、少しだけ変わった。久我は、事件を「事故」で終わらせる気はなかった。


高瀬は、完全犯罪を信奉する男だった。研究室でよく言っていた。




「理論上、殺人は必ず隠せる。化学反応は嘘をつかない」




久我は、その言葉が引っかかっていた。


高瀬が死ぬ直前、研究室で扱っていた物質――


フッ化水素酸。




ガラスを溶かし、骨すら侵す猛毒。


だが、正しく使えば「痕跡を消す」ことができる。




「まさか……」




久我は、あの川底の白い粉末を思い出した。




フッ化カルシウム


石灰岩が溶けて再沈殿したもの。




――フッ化水素酸が、川に入った?




その答えは、登山用の山小屋にあった。高瀬には同行者がいた。


同じ研究室の院生、佐藤 恒一。高瀬のライバル。




久我と遥は、佐藤に会いに行った。




「事故ですよ」




佐藤は、淡々と答えた。




「山で足を滑らせただけだ」




「じゃあ、なぜ川の水にフッ化物イオンが検出されたんですか」




その瞬間、佐藤の視線が揺れた。


久我は続ける。




「あなたは、高瀬に脅されていました。


 研究データの横取りを教授にばらすって」




沈黙。




「計画は、こうでしょう」




久我は、ホワイトボードに書き出す。




1. 高瀬を山に誘う


2. 小屋で殺害する


3. 川に置いた後フッ化水素酸を使い、死体表面の争った痕跡を溶かす


4. 川の流れでフッ化水素酸を下流に流す




「でも、あなたは運が悪かった」




久我は、遥を見る。




「見つけた高校生が、科学を知っていたことです」




遥は、小さく頷いた。




「中和後に残る沈殿物。


 それが、あなたの完全犯罪を壊しました」




佐藤は、最後まで否定しなかった。


肯定もしなかった。ただ一言、こう言った。




「理論は、完璧だった」




久我は答えた。




「自然は、理論通りに動かない」




事件は、殺人として立件された。


山と川は、今日も変わらず流れている。


遥は、帰り道で言った。




「完全犯罪って、存在しないんですかね」




久我は、少し考えてから答えた。




「存在するかもしれない。でもそれを解決する人間が、必ず現れる」




川の水が、静かに音を立てて流れていた。

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