正義の残り火
第一章 灰色の朝
俺——桐生タケルは、東京地検特捜部の検事として十五年間働いてきた。四十三歳。髪には白いものが混じり始め、目の下には消えないクマがある。妻からは「最近、笑わなくなった」と言われる。そりゃそうだ。この国の闇を見続けていれば、笑えるはずがない。
今朝も、俺は築地の古いビルにある特捜部のオフィスにいた。コーヒーは六杯目。胃が痛い。だが、止められない。カフェインだけが、この疲労と戦う武器だ。
「桐生さん、新しい案件です」部下の若手検事、林マユミが資料を持ってきた。二十八歳、肩までのストレートヘア、黒縁メガネの奥に鋭い目を光らせている。東大法学部を首席で卒業した天才だが——天才だからこそ、まだこの世界の本当の汚さを理解していない。彼女の目には、まだ希望の光がある。俺にはもうない。
「港区の再開発プロジェクト『ベイサイド・ビジョン』——総事業費三千億円。入札の不正疑惑があります」林が説明する声には、興奮が滲んでいた。彼女は、まだ正義を信じている。
「また再開発か」俺は溜息をついた。「どうせ政治家と建設会社の癒着だろう。いつものパターンだ」
「でも、今回は違います!」林が身を乗り出した。彼女のこの熱意——俺も昔は持っていた。「内部告発者がいるんです。確実な証拠があると——」
「内部告発者は、たいてい消される」俺は冷たく言った。林の顔が曇る。「すまん。でも、現実を見ろ。この国で本当のことを言う奴は——」
その時、俺の携帯が鳴った。非通知番号。
嫌な予感がした。だが、出た。
「桐生検事ですね」低い、機械的に変質された声。「吉岡ケンジのことで電話しました。彼に会わない方がいい」
林が俺の表情の変化に気づき、目を見開いた。
「誰だ」俺は静かに尋ねた——怒りを押し殺して。
「忠告です。この件には、手を出さないでください。さもなくば——あなたの娘さん、アヤちゃんでしたね。中学二年生。バスケ部で——」
「娘に触れるな」俺は低く唸った。拳が、机を叩いていた。
電話は切れた。
林が不安そうに俺を見た。「桐生さん......脅迫、ですか?」
「ああ」俺は携帯を握りしめた。「つまり——この件は本物だ。誰かが、必死で隠そうとしている」
林の目が——輝いた。恐怖ではなく、闘志で。
「なら、絶対に暴きましょう」
この子は——本当に怖いもの知らずだ。だが、それが林マユミという人間だ。正義のためなら、どんな危険も厭わない。俺は彼女を守らなければならない。彼女の正義感を——まだ守れる。
三日間の捜索の末、俺たちは内部告発者の吉岡ケンジを見つけた。川崎の安アパート。ドアを開けたとき——
「あなたが、桐生検事......?」吉岡は三十代半ば、やつれ果てた顔に無精髭。目には深い恐怖と、わずかな希望が混在していた。「本当に、来てくれたんですね......」
「吉岡さん、私は東京地検の桐生です。あなたの告発について——」
「もう、無理です」吉岡が震える声で遮った。「逃げても、見つかる。携帯を三回変えた。住所も偽名も使った。でも——奴らは、どこまでも追ってくる」
「大丈夫です。私たちが保護します」林が優しく、だが力強く言った。彼女は吉岡の隣にしゃがみ込み、目を見て話しかけた。「吉岡さん、あなたは勇気を出した。それを、無駄にはさせません」
吉岡の目に——涙が浮かんだ。
「あなたは......信じてくれるんですか? 橘シンイチロウが——国会議員が、暴力団と繋がっているって」
「信じます」林が断言した。「だから、ここにいます」
吉岡が——初めて、安堵の表情を見せた。
「ありがとう......ありがとうございます。私、もう一人で戦えなくて——」
その瞬間、窓ガラスが割れた。
銃声——
吉岡の額に、赤い穴が開いた。
「伏せろ!」俺は林を床に押し倒した。彼女の悲鳴が耳に響く。
数秒後、再び静寂が戻った。
恐る恐る顔を上げると——吉岡は、床に倒れていた。もう動かない。
林が——震えていた。初めて見る、人の死。
「桐生さん......これ、本当に......」
「ああ」俺は彼女の肩を抱いた。「これが、俺たちが戦っている相手だ」
林の目から——涙が溢れた。だが、それは恐怖の涙ではなかった。
怒りの涙だった。
「許せない......」林が呟いた。「絶対に、許せない」
俺は——彼女の怒りを感じた。そして、思った。
この子は——壊れないな。
第二章 見えない糸
吉岡ケンジの殺害から二日後。俺は上司の部長検事・斎藤ヒデオに報告していた。
斎藤は五十代、白髪混じりの頭、深い皺が刻まれた顔。だが、その皺は——笑った跡ではなく、苦悩の跡だ。彼もまた、長年この世界で戦ってきた。そして——負け続けてきた。
「桐生、この件から手を引け」斎藤が端的に言った。だが、その声には——疲労が滲んでいた。
「部長、証人が殺されたんです。これは——」
「だからだ!」斎藤が机を叩いた——そして、すぐに後悔したような顔をした。「すまん。だが、わかってくれ。証人が殺されるような案件は——俺たちが扱える範囲を超えている」
俺は——斎藤の目を見た。そこには、俺が思っていたものとは違うものがあった。
恐怖ではなく——諦念。
そして、深い後悔。
「部長、あなたも昔は——」
「昔は、な」斎藤が自嘲的に笑った。「俺も、お前や林のように正義を信じていた。二十年前、似たような事件を追った。政治家の汚職。確実な証拠があった。だが——」
斎藤は窓の外を見た。灰色の空。
「証拠は消され、証人は消され、そして——俺の上司が、自殺した。いや、自殺に見せかけられた」
俺は息を呑んだ。
「それ以来、俺は——戦うのをやめた。家族を守るために」斎藤が俺を見た。「桐生、お前には娘がいる。アヤちゃん、まだ中学生だろう? 彼女の笑顔を、守りたくないか?」
その言葉が——俺の胸に突き刺さった。
「部長......」
「すまん。こんなことを言う俺が、情けない」斎藤が立ち上がった。「だが——これが、俺の選択だった。正義よりも、家族を選んだ。そして、毎日後悔している」
斎藤は部屋を出て行った——その背中は、ひどく小さく見えた。
オフィスに戻ると、林が待っていた。
「桐生さん、吉岡さんの遺品を調べました」林がUSBメモリを見せた。「彼のパソコンから、これを回収しました」
「中身は?」
「賄賂の証拠——橘議員の口座への送金記録、タイヨウ建設との契約書、そして——」林が画面を見せた。「これ」
写真だった。橘議員が、スーツ姿の男と握手している。
その男の顔を見て——俺の血が凍った。
「黒瀬タツヤ......」
「暴力団『関東一誠会』の会長」林が確認した。「つまり、橘議員は——」
「政界と裏社会の架け橋だ」俺は画面を凝視した。「これを公表すれば——」
「殺されますね」林が淡々と言った。「吉岡さんのように」
俺は——林を見た。彼女は、恐怖を感じていないのか?
「林、お前——怖くないのか?」
林は——微笑んだ。初めて見る、彼女の本当の笑顔だった。
「怖いですよ。めちゃくちゃ怖いです」彼女が正直に答えた。「でも——もっと怖いことがあります」
「何だ?」
「何もしないで、吉岡さんの死を無駄にすることです」林が俺の目を見た。「桐生さん、私——検事になった理由があるんです」
林は、語り始めた。
彼女の父親は、中小企業の経営者だった。真面目に働き、従業員を大切にし——だが、大手企業との不正な取引を拒否したために、倒産に追い込まれた。
「父は、正しいことをしました。でも、報われなかった」林の声が震えた。「そして、自殺しました。私が高校生の時」
「林......」
「その時、思ったんです。この国は、正しい人が報われない。だから、私が——法律の力で、正しい人を守ろうって」林が拳を握りしめた。「だから、絶対に逃げません。父の死も、吉岡さんの死も——無駄にしない」
俺は——言葉を失った。
林マユミという人間の——強さと脆さが、同時に見えた。
そして、決意した。
「わかった。俺も——最後まで戦う」
林が——涙を流しながら、笑った。
「ありがとうございます、桐生さん」
その夜、俺は旧知のジャーナリスト、三上リョウコに会った。
三上は四十代、ショートヘアに革ジャン、いつも煙草を吸っている——だが、その目は、どんな権力にも屈しない強さを持っていた。
「久しぶりね、桐生」三上が煙草を吹かしながら言った。「また、厄介事?」
「ああ。でも、これは——本物だ」俺はUSBメモリを渡した。
三上がそれを受け取り、中身を確認した——そして、口笛を吹いた。
「橘シンイチロウと黒瀬タツヤ......こりゃ、特大ネタじゃない」
「だが、危険だ。すでに一人、殺されている」
「知ってる」三上が煙草を灰皿に押し付けた。「吉岡ケンジの件、ニュースで見た。可哀想に——勇気を出したのに、報われなかった」
「三上さん、これを書いてくれますか?」
三上は——しばらく黙っていた。そして——
「書くわ」
「でも——」
「わかってる。私も狙われるでしょうね」三上が笑った——だが、その笑いには覚悟があった。「でもね、桐生。私がジャーナリストになった理由、知ってる?」
「いえ」
「権力に殺された人たちの、声になるため」三上が俺を見た。「吉岡さんは、もう声を出せない。なら、私が——彼の声を、世界に届ける」
俺は——三上リョウコという人間の、信念を感じた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。ただ——」三上が付け加えた。「あなたも覚悟しなさい。検察を敵に回すことになる」
「覚悟しています」
三上が記事を書き始めた——だが、翌日、彼女のオフィスが襲撃された。
三上から電話が来た。
「桐生、やられたわ。オフィスに侵入された。でも——」彼女が笑った。「データは暗号化してクラウドに保存してある。奴ら、無駄足だったわね」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ。でも、だからこそ——書くのよ」
三上リョウコ。林マユミ。
二人の女性——それぞれに傷を負い、それぞれに理由があり——
そして、誰よりも強かった。
三上の記事は、三日後に公開された。
『橘議員と暴力団の癒着——再開発利権の闇』
記事は、瞬く間に拡散された——
だが、その時。
三上が消えた。
第三章 崩れる正義
三上リョウコの失踪——俺は、すぐに動いた。だが、警察は動かなかった。
「自主的な失踪の可能性があります」担当刑事は面倒くさそうに言った。
俺は——怒りを抑えられなかった。
「ふざけるな! 彼女は誘拐されたんだ!」
「証拠がありません」
証拠——いつもそうだ。証拠がなければ、何も動かない。
だが、俺は知っていた。三上は——連れ去られたのだと。
そして、その日の午後——橘議員本人が、俺のオフィスを訪ねてきた。
橘シンイチロウ。六十代、白髪で品のある顔。テレビで見る「国民のための政治家」の仮面を、完璧に被っている。
「桐生検事、お話があります」橘は穏やかな口調で言った——だが、その目には、冷たい計算があった。
「何の用ですか」俺は冷たく応じた。
「誤解を解きたいのです」橘が微笑んだ。「三上記者の記事——すべて虚偽です。私は、決して——」
「吉岡ケンジを殺したのは、あなたですか?」
橘の笑顔が——一瞬、消えた。だが、すぐに取り繕った。
「私は、誰も殺していません。そんな野蛮なこと——」
「では、誰が?」
「知りません」橘が肩をすくめた。「この世界は複雑です。吉岡氏も——様々な敵を作っていたのでしょう」
「あなたと黒瀬タツヤの関係は?」
「黒瀬氏?」橘が首を傾げた——まるで、初めて聞いた名前のように。だが、俺は知っていた。この男は、完璧な演技者だ。「ああ、確かに地域の会合で一度——」
「嘘をつくな!」俺は声を荒げた。「証拠があるんだ!」
「証拠?」橘が——笑った。嘲笑だった。「桐生検事、あなたは優秀な法律家のはずです。『証拠』の法的な定義を、ご存知でしょう?」
そして、橘は——俺が最も恐れていた真実を、淡々と語り始めた。
「USBメモリのデータ? 改竄の可能性を排除できますか? 写真? 撮影者も日時も不明。こんなものは——法廷では、証拠になりません」
俺は——悔しかった。橘の言う通りだった。
「あなたは、法律の抜け穴を——」
「抜け穴ではありません」橘が訂正した。「法律の正しい理解です。桐生検事、あなたも——」
橘が俺に近づいてきた。そして、低い声で——
「この国のシステムを、理解すべきです」
「システム?」
「政治家、官僚、財界、そして裏社会——すべてが、バランスを保って機能しています」橘が説明した——まるで、教師が生徒に教えるように。「このバランスを崩せば——混乱します。そして、混乱で被害を受けるのは——一般市民です」
「綺麗事を——」
「綺麗事ではありません」橘が遮った。「現実です。桐生検事、あなたの娘さん——アヤちゃんは、今日も元気に学校に通っていますね?」
俺の拳が、震えた。
「娘に、手を出すのか......」
「出しませんよ」橘が微笑んだ。「あなたが、賢明な判断をすれば」
橘は立ち去った——だが、最後に振り返って——
「良い父親でいてください、桐生検事」
その言葉が——俺の心を、深く抉った。
その夜、俺は——久しぶりに家に帰った。
妻のサヤカが、驚いた顔で迎えた。
「タケル? どうしたの、こんな時間に」
「ああ......ちょっと、顔が見たくて」
娘のアヤが、リビングから出てきた。バスケのユニフォーム姿。
「お父さん! 今日ね、シュート決めたんだよ!」
アヤの笑顔——無邪気で、明るくて。
俺は——この笑顔を、守らなければならない。
だが、それは——正義を捨てることを、意味するのか?
「アヤ」俺は娘を抱きしめた。
「お父さん? どうしたの?」
「何でもない。ただ——お前が、大切だってこと」
翌朝、俺は林に電話した。
「林、この件から——」
だが、林が遮った。
「桐生さん、私、考えました」
「何を?」
「私が、一人で続けます」
「何を言って——」
「桐生さんには、家族がいます。守るべきものがある」林の声は、穏やかだった。「でも、私には——もう、失うものがありません」
「林......」
「だから、私にしかできないことがあります」林が続けた。「桐生さんは、手を引いてください。そして——家族を、守ってください」
俺は——涙が出そうになった。
「すまん、林。俺は——」
「謝らないでください」林が言った。「桐生さんは、十分戦いました。もう、いいんです」
電話を切った後——
俺は、自分の無力さに——打ちひしがれた。
だが、その時。
別の電話が来た。
三上リョウコだった。
「三上さん!?」
「桐生......」三上の声は、疲れ果てていた。「監禁されてた......でも、脱出した......」
「どこにいるんですか!?」
「言えない......でも、聞いて......」三上が息を切らしながら言った。「橘の背後には——もっと大きな組織がある......『日本再興会』って......」
「日本再興会?」
「財界、政界、官僚の——秘密結社......戦後から続いてる......」
俺は——戦慄した。
これは——想像以上に、深い闇だった。
「三上さん、今すぐ——」
「林検事と、一緒に戦わせて」三上が言った。「二人で——この国の闇を、暴く」
俺は——彼女たちを止めるべきだった。
だが——
止められなかった。
なぜなら、彼女たちの決意が——俺自身の、失われた正義への渇望を——
呼び覚ましたからだ。
第四章 裏切りの構造
林と三上は、独自に捜査を進めた。俺は——表向きは手を引いたが、密かに情報を提供していた。
そして、ある夜。
林から、緊急の電話が来た。
「桐生さん、大変なことがわかりました」
俺は、指定された場所——郊外の廃ビル——に向かった。
そこで、林と三上が待っていた。
「これを見てください」林がタブレットを見せた。
『日本再興会』のメンバーリスト——
そこには、信じられない名前が並んでいた。
大手建設会社の会長。メガバンクの頭取。元官房長官。
そして——
最高検察庁の検事総長。
俺の、組織のトップ。
「これは......」
「だから、検察は動かなかったんです」林が説明した。「トップが、敵だったから」
三上が補足した。「日本再興会は、戦後の混乱期に結成された。表向きは、日本の復興のため。でも実際は——利権の分配と、権力の維持のため」
「橘議員は、その実行部隊の一人に過ぎない」林が続けた。「本当の黒幕は——」
その時——
銃声が響いた。
林の肩に、血が飛び散った。
「林!」
俺は彼女を抱きかかえた。三上が周囲を警戒する。
「くそっ......狙撃です!」三上が叫んだ。
俺たちは、急いで建物の中に逃げ込んだ。
林が——苦痛に顔を歪めていた。
「大丈夫か!?」
「大丈夫......貫通してます......」林が血を流しながら——笑った。「まだ、死ねません......吉岡さんの、仇を討つまで......」
この子は——本当に強い。
三上が傷の応急処置をしながら言った。「誰かが、私たちを追跡してた。日本再興会——本気で、私たちを消そうとしてる」
俺は——決断した。
「もう、逃げられない。なら——」
「戦うしかない」林が俺の言葉を継いだ。
だが、その時——
俺の携帯が鳴った。
妻からだった。
「タケル! 大変なの! アヤが——」
俺の心臓が止まった。
「アヤが、どうした!?」
「学校から帰ってこないの! 携帯も繋がらない!」
俺は——絶望した。
やはり——娘を、人質に取られた。
そして、すぐに別の電話が来た。非通知番号。
「娘さんは、無事です」変質された声。「林検事と三上記者の捜査を止めてください。そうすれば——」
俺は——林と三上を見た。
林は、肩を撃たれながらも——俺を見て、頷いた。
「桐生さん、娘さんを助けてください」
「でも、お前たちは——」
「私たちは、続けます」三上が断言した。「もう、引き返せない」
俺は——
選択を迫られた。
娘か、正義か。
家族か、信念か。
だが——その時。
意外な人物が、現れた。
斎藤部長だった。
彼は、血相を変えて廃ビルに駆け込んできた。
「桐生! 娘さんの居場所がわかった!」
「部長!?」
「私が——助け出す」斎藤が言った。その目には——二十年ぶりに、闘志が戻っていた。「お前たちは、戦いを続けろ」
「部長、危険です!」
「構わん」斎藤が笑った——若々しい、希望に満ちた笑顔だった。「二十年前、俺は逃げた。そして、ずっと後悔してきた。もう、逃げない」
斎藤部長は——一人で、娘の救出に向かった。
そして——
彼は、アヤを救った。
だが、その代償として——
銃弾を受けた。
俺が駆けつけた時——斎藤部長は、倒れていた。
「部長!」
「桐生......娘さんは、無事だ......良かった......」斎藤が血を流しながら、微笑んだ。
「救急車を!」
「もういい......」斎藤が俺の手を握った——その手は、もう冷たくなっていた。「桐生......俺は、二十年間——間違い続けてきた......でも、最後に——正しいことが、できた......」
「部長......」
「お前は......諦めるな......正義を......信じ続けろ......」
斎藤部長は——そのまま、息を引き取った。
俺は——声を上げて泣いた。
斎藤ヒデオ——
かつて正義を信じ、戦い、そして敗北し——
だが、最期に、再び立ち上がった男。
彼の死は——俺に、何かを教えてくれた。
正義は——いつでも、取り戻せる。
諦めない限り。
第五章 正義の残り火
斎藤部長の葬儀——
多くの検察関係者が訪れた。だが、誰も真実を語らなかった。
「強盗に襲われた」という公式発表を、誰も疑わなかった。
いや、疑っても——沈黙していた。
この国の病巣——それは、沈黙だ。
だが——
俺は、もう沈黙しない。
林マユミは、肩の傷を治療しながらも、捜査を続けていた。
「桐生さん、斎藤部長の遺品から——これを見つけました」
林が俺に渡したのは——古い日記帳だった。
二十年前、斎藤部長が追っていた事件の記録。そこには——日本再興会の存在が、既に記されていた。
「部長は......知っていたんです。ずっと」林の目に、涙が浮かんだ。「でも、脅されて——沈黙させられた」
俺は日記を読んだ。そこには、斎藤部長の苦悩が綴られていた。
『正義を貫けば、家族が危険に晒される。だが、沈黙すれば——自分の魂が死ぬ。どちらを選んでも、何かを失う。それでも——いつか、必ず——この記録を、誰かに託そう』
斎藤部長は——最後まで、諦めていなかった。
この日記を、俺たちに託すことで——彼の戦いは、続いている。
「林」俺は彼女を見た。「お前の言う通りだった。俺たちは——戦い続けるべきだ」
林が——涙を流しながら、笑った。
「ありがとうございます、桐生さん」
三上リョウコも、隠れ家から出てきた。彼女は——痩せ、疲れ果てていたが——目には、揺るがない決意があった。
「桐生、林検事。私たち三人で——最後の戦いを始めましょう」
俺たちは、斎藤部長の日記と、吉岡の証拠と、三上が独自に集めた資料を——すべて統合した。
そして、決定的な証拠を掴んだ。
日本再興会の内部文書——会合の議事録。そこには、具体的な利権の分配方法、賄賂の金額、そして——殺人の指示まで、明記されていた。
「これを公表すれば——」林が興奮した声で言った。
「国が揺れる」俺が続けた。「でも——やるしかない」
三上が記者会見を開いた。大手メディアは、最初は報道を渋った——だが、SNSで爆発的に拡散され、無視できなくなった。
『日本再興会——戦後70年の闇が明らかに』
記事は、国内外で大きな反響を呼んだ。
国会は紛糾した。野党は追及し、与党は否定した——だが、証拠の山を前に、否定し続けることはできなかった。
橘議員は——記者会見で、涙を流した。
「国民の皆様、申し訳ありませんでした」
だが、俺は知っていた。あれは演技だと。彼は、最後まで——自分を守ろうとしていた。
橘は辞職した。だが、それだけでは終わらなかった。
日本再興会のメンバーが、次々と逮捕された。建設会社の会長、メガバンクの頭取、元官房長官——
そして、検事総長も、引責辞任した。
検察組織は、大きく揺れた。トップの腐敗が明らかになり——組織全体の信頼が、失墜した。
だが——それは、必要な痛みだった。
膿を出さなければ、治癒は始まらない。
林マユミは——特捜部の新しいリーダー候補となった。まだ二十代だが、誰も彼女に異を唱えなかった。
なぜなら——彼女は、命をかけて正義を貫いたからだ。
「桐生さん」林が俺に言った。「これから、検察を変えていきます。斎藤部長が、吉岡さんが、そして——正義のために戦ったすべての人が、報われる組織に」
俺は——彼女の肩を叩いた。
「頼んだぞ、林。お前なら——できる」
林の目に——涙が浮かんだ。だが、それは悲しみの涙ではなく——
決意の涙だった。
三上リョウコは、ジャーナリズム賞を受賞した。授賞式で、彼女は言った。
「この賞は、私一人のものではありません。吉岡ケンジさん、斎藤ヒデオさん——真実のために命を賭けた人々に、捧げます」
会場は——スタンディングオベーションに包まれた。
だが、三上は——華やかな世界には戻らなかった。彼女は、再び独立系のジャーナリストとして——権力の監視を続けることを選んだ。
「桐生、まだまだ戦いは終わらないわ」三上が煙草を吹かしながら言った。「日本再興会は潰れた。でも——同じような組織は、また生まれる」
「ああ」俺は頷いた。「権力は、腐敗する。いつの時代も」
「だから、私たちは——監視し続けなければならない」
俺は——検察を辞めた。
林が引き留めた。三上も、反対した。
だが、俺には——やるべきことがあった。
弁護士として——今度は、権力に立ち向かう側に立つこと。
吉岡ケンジのような、内部告発者を守ること。
斎藤ヒデオのような、良心を持ちながらも沈黙させられた人々に——声を与えること。
「桐生さん」林が別れの時に言った。「あなたは、私の師匠です。これからも——正義のために、戦ってください」
「お前もな、林」俺は微笑んだ。「お前は——この国の希望だ」
林マユミ——
父を失い、傷つき、それでも立ち上がり続ける、不屈の検事。
三上リョウコ——
脅され、監禁され、それでも真実を書き続ける、勇敢なジャーナリスト。
斎藤ヒデオ——
二十年の沈黙を破り、最後に正義を選んだ、贖罪の人。
そして、吉岡ケンジ——
恐怖に震えながらも、勇気を出して告発した、名もなき英雄。
彼らの戦いは——俺の中で、生き続ける。
---
それから三年後。
俺は、弁護士事務所を開いていた。小さな事務所だが——毎日、依頼者が訪れる。
権力に虐げられた人々。
声を上げられない人々。
そんな人々の——代弁者として。
ある日、一人の若者が事務所を訪ねてきた。
「桐生先生ですか?」
「ああ」
「僕、会社の不正を告発したいんです。でも——怖くて」
若者の目には、吉岡ケンジと同じ——恐怖と希望が混在していた。
俺は——彼の肩を叩いた。
「大丈夫だ。俺が、守る」
若者の目から——涙が溢れた。
「ありがとうございます......」
俺は——思った。
正義は、完全には勝てない。
権力は、何度でも蘇る。
腐敗は、根絶できない。
だが——
それでも。
戦い続ける人間が、いる限り——
正義の火は、消えない。
それは、小さな残り火かもしれない。
でも、その火は——やがて、大きな炎になる。
林マユミが、検察で。
三上リョウコが、ジャーナリズムで。
そして、俺が、法廷で——
それぞれの場所で、火を灯し続ける。
窓の外を見た。
東京の空は——相変わらず灰色だった。
だが、その灰色の中に——わずかに、青空が見えた。
希望の色。
俺は——微笑んだ。
そして、新しい依頼者のファイルを開いた。
戦いは、続く。
正義のために。
そして——この国の未来のために。
娘のアヤが、事務所に遊びに来た。もう高校生になっていた。
「お父さん、今日も忙しそうだね」
「ああ。でも——やりがいがある」
「お父さん、かっこいいよ」アヤが笑った。「困っている人を、助けているんでしょ?」
俺は——娘を抱きしめた。
「アヤ、お前に——いつか話さなければならないことがある」
「何?」
「お前が誘拐されたこと。斎藤部長が、命をかけてお前を救ったこと」
アヤの顔が——真剣になった。
「その人は......どうなったの?」
「亡くなった。お前を守るために」
アヤの目から——涙が溢れた。
「私のせいで......」
「違う」俺は娘の肩を抱いた。「斎藤部長は、自分の選択として——正義を選んだ。そして、その選択に——後悔はなかったはずだ」
「お父さん......私、どうすればいい?」
「生きろ」俺は言った。「精一杯、生きて。そして——正しいことを、選べる人間になれ。それが——斎藤部長への、最高の恩返しだ」
アヤが——強く頷いた。
俺は——思った。
次の世代に、託すこと。
それが、俺たちの使命だ。
林マユミは、若い検事たちを育てている。
三上リョウコは、若いジャーナリストたちを指導している。
そして、俺は——娘に、そして新しい依頼者たちに——
正義を信じることの、大切さを伝えている。
正義の残り火——
それは、世代を超えて、受け継がれていく。
消えそうになっても、誰かが——また灯す。
それが、人間の尊厳だ。
それが、希望だ。
夕日が、事務所の窓を照らした。
オレンジ色の光——
俺は、その光の中で——
新しい戦いの準備をした。
明日も、また——
正義のために。
エピローグ
それから十年後。
林マユミは、検事総長になっていた。日本史上最年少、そして最初の女性検事総長として。
彼女は、検察組織を根本から改革した。透明性を高め、内部告発者保護制度を確立し——そして、権力への忖度を、許さなかった。
「私の師匠が、教えてくれました」林が就任会見で言った。「正義は、諦めなければ——必ず勝つ、と」
三上リョウコは、調査報道の第一人者として、国際的に認められていた。彼女の記事は、世界中の腐敗を暴き——多くの権力者を、法廷に送った。
「私には、忘れられない人がいます」三上がインタビューで語った。「吉岡ケンジさん。彼の勇気が、すべての始まりでした」
そして、俺——桐生タケルは。
小さな弁護士事務所を、続けていた。
依然として、権力と戦い、弱者を守り——
だが、もう一人ではなかった。
娘のアヤが、弁護士になり——俺と共に、事務所で働いていた。
「お父さん、新しい依頼です」アヤが資料を持ってきた。「またまた、政治家の汚職みたい」
俺は——笑った。
「やれやれ。腐敗は、永遠になくならないな」
「でも、私たちも——永遠に戦います」アヤが微笑んだ。
その笑顔——
林マユミの決意。
三上リョウコの勇気。
斎藤ヒデオの贖罪。
吉岡ケンジの希望。
すべてが——この笑顔に、集約されていた。
正義の残り火は——
次の世代へと、確実に受け継がれていた。
俺は、窓の外を見た。
東京の空は——
青かった。
完全に、青かった。
希望の色。
未来の色。
そして——
正義の色。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
読者の皆様には、感謝いたします。
ラプ太郎先生の次回作にも乞うご期待ください。




