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鼓動 ――約束の夏――  作者: 御厨つかさ


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約束の夏 10 常葉の松



「年を取らないままでは、面倒事が起きるのでね」

 黒城海将補が、端然と座して問いに応えた。

 あれは随分と前のことだったと。



 いまもまた刻を経てこの離れに通されたことを懐かしくおもいながら、黒城は一人空を仰いでいた。

 本多家の離れは、能楽を演じることもある渡り廊下をもち、実際に季節には能楽がいまでも演じられている。

 演じるのはその家の主だ。

 或いは、それに準ずる立場の者が能を舞う。

 池を望む傍にあり、月を望む夜になど篝火を焚き羽衣などを演じれば見事な幽玄を此の世に造り出す離れだと、招かれたことのある黒城は憶えていた。

 庭を彩る緑の松、それさえ能に背板を描く代わりと。

 風情と演じる能の約束事を確かに守る離れの造りは、本多家が武家であったことに由来している。

 古き刻より武家としてときの権力に仕えてきた本多家は、先の幕府であった徳川の御代には武家として仕えその領地を守っていた。そして、その徳川家に仕える大名家には、能楽の嗜みが必要とされたのだ。

 武家であるにしても、平穏を旨とする御代には能を舞い刀剣ではなく書を修め。

 そうした処世が必要となるときもあったが為に、本多家当主と連なるものたちには能楽を一通り舞い謡うことが出来ることが求められている。

 現に、長子ではないが次の当主として目されている三姉妹の父である本多一佐は、その修めた能を舞う姿の見事さに能楽の家から養子に望まれたこともある。

 ―――見事な能を、本多は舞うな。

 それは、昔の記憶。

 能を舞う本多の姿を黒城海将補は客として呼ばれ観賞した記憶をもっていた。

 白く幽玄と此の世のものではなく本当に夢の舞う幽世から訪れたものだと。

 特に、次代といわれる本多一佐の舞う能楽は、幽玄をまぼろしを此の世に連れてくるといわれていた。

 幽玄と白く闇に浮かぶ美貌。

 音が、さそい。舞が誘う。

 夢幻という言葉があるが、それはあの舞に奉じられた言葉であるのかもしれないと。みるものにときをわすれさせ、刻を越えて。

 幽冥の世と、此の世との境をながい渡り廊下がつないでみせるような。

 幽世より今生へ訪いてその美しさに酔い我を忘れ、現世から攫われたとしても。

 望みを果たし本望であろうと想わせる。

 まぼろしを現世よりも望む魂でなくとも、あの幽玄の舞には心奥に消えぬ余韻に囚われて、うつつをわすれてしまうこともあるだろうと。

 ましてや。

 望むものがあれば。


 ふと、風が吹き黒城は本多の能を想起していた記憶をおいて、風のわたる庭と蒼天を視野におさめた。


 かくりよに。

 幽冥の世にもどりたいとは。

 

 本来、うつつの身が想うことではありはしないが、と。

 しかし、―――。

 黒城が眸を伏せ、しずかに想う。

 幽世の方が、よほど己に相応しいとは。

 常々、想うことではあるのだが。


 夢幻の舞を奉納したあと、衣装を落とす本多の背後に腕組みをして。

 あの後、本多にかれはいった。

「私は、―――古き刻より此の地にある呪いを此の身に受けた。時を経ても年を重ねることはない。だから、けしておまえの娘達の一人をわたしと妻合わせようとはするな」

 

 本多の応えはかえらなかった。


 何をどう考えた処で、本多が家の役目にあり、贄の約束を果たさぬ方策など持つことはできないことはわかっていても。

 

 能を奉納し舞うのもまた本多の役割のひとつだ。

 神に奉じ、神に舞う。

 それは、もとより人の為に演じられるものなのではないのだから。


 ―――いま、本多はなにをしているのか。


 はがゆくおもう。この事態に妻である本多静の滅多に人前に現れない姿さえみえたというのに。

 ――だからといって、責任を問うのは、此方こそ無責任か。

苦笑して、庭をみる。若い身にもどってしまっているということは、感情もまたそれに引き摺られてしまっているのだろうか?

 偽装といったが、それはある意味で嘘だ。

こうして外観を装うように、年齢をある程度身分に相応しいものとなるように調整し見る者にみえるよう「偽装」していた。それは確かに事実だが。

 手をみる。

 若い手は、当時のまま―――つまを呪から守ることはできても、―――…その病から救うことはできなかった、その力ない身の。

 その刻のままだ。

 彼女を呪から守ることは、当時成す術のなかった病から守ることと同じではなかった。

 いまは治療法のある病だ。

「―――――…」

 そっと、失った名を呼ぶ。

 彼女と夫として在った月日は短いものだった。

 だからこそ、…―――病に短いいのちと知り、家の役目を果たすために自ら志願してかれの妻となる為に訪れた彼女を。

 短い命であるからこそ、最期までのひとときを呪におかされ命を終えるのでなく。穏やかな日々を僅かでも過ごすことができたことに後悔はない。

 それとも、封呪に刻を留める力があるとしっていたなら。

 その封印に時をかけて、こうして病の癒える術もある時代まで送り出せばよかったのか。

 闇の雫を受けて封呪の巫女が。

 果たして、そのうちに身を蝕まれることはないのかと。

 そも、異形となり魔に操られ果てるものがそのすべてと、これまで対峙して知ってはいるというのに。

 問いが身を食む。

「…――弱いな、」

 私は、と。


 ――――…きみを。

 封呪の巫女として、ときをとめたきみを護ることができれば。

 いまのこのときに、きみは救われていただろうか?と。

 おろかななやみだ。

 あまりにも弱すぎる。

 本当は知っている。

 封呪の巫女といえど、魔を封じた後は異変を生じる前に封殺されるのが定めだということを。

 ―――――喩え、時を超えていても復活はありえないのだと。…

 

 だからこそ、…――。

 いま、このいま、魔を雫を身に受けてしまった少女を救わなくてはならない。


 それが。


 そして、…――――。

 







 白い幽玄を身に現わした本多にそれを頼んだのは、まだそれほど経ってはいない刻だったはずだ。

 蒼天はひろく果てしない。

 海を模したという水面は、池でありながら借景をもちいることで果てのない広がりを見るものにおもわせる。

 その遠くまで続く水面が海へといつのまにか見えていくように。

 錯覚をさせる。

 いまは亡きひととの想い出のままに、幽世へとまるで続いていくかのように。

 もし幽世へつづく道があるのなら、と。

 手を取り、連れて行かれることができればと。

 まるで此の世に本当に幽玄の舞とともにあらわれたかと。

 白いまぼろしを思い起こさせた舞を。

 夜の薪能を奉じたのちの本多との会話を思い返しながら、黒城はしずかに座していた。

 黒城の記憶は、いつも残念なほどに色褪せず。

 いつでも取り出せるほどに残る。

 それはおそらく唯呪いのひとつでしかないだろう。

 それは、来し方を。

 還り来ぬあの日々が、手に取るように思い出せるというだけの話だ。

 そして、あの刻。

 神へと役目に舞を奉じた本多に。

 本多にかれの娘達を犠牲にせぬようにと、語ったのだ。

「私は年を取ることができない。そのようなものに、けして娘達を嫁がせるな」

 本多は唯無言で重い金襴の闇に映える衣装を落とし、着替えていた。

 淡々と白い表情をかえずに。

 

 本多に、なにを応えることができたかと。

 己に苦笑する。

 それこそ、己が何とかするべきことだと。

 で、あるからには。


 一人案内された離れで。

 端然と座し、両手を揃え膝に置き。

 遠くに視線をおいて。

 松の緑に常葉の松に、永遠に若いままでしかいられない象徴に。

 常緑のみどりに視線を於いて。

 その刻、本多に告げたことを。

 のろいは、かれから過ぎる刻を身に刻む術を奪った。

 永遠の刻を生きる宿命を、身への呪いを。


 ―――だが、その偽装が解けたというのなら。


 しずかに座し、庭に視線をおき空をみる。

 常葉の松は唯の呪いだと。

 変らぬ身を、…。


 松にかけられた羽衣は、いま誰がもっているのか。


 なくては、―――かえるすべが、…ない。


 羽衣をなくして天に還る術を失った天女。


 一人座し。


 離れに通されたのは、不意の客に遭わない為だ。

 姿がかわり、偽装が解けた黒城のさまを。

 それ、を不用意に誰にもみせることのないようにと。


 そして、――――。


「樋口、いるか」

 しずかに低く呼ぶ声に、無言のいらえとともに。

 頭を垂れた樋口の姿が欄干の下、庭に在った。

 それを視線に、告げる言葉は。

「刻をはかれ、もし封呪がすべて解けるというのなら」

 それをしらせよ、と。

 樋口の姿が幻のように消える。

 異界より訪れる禍と呪い。

 魔の雫と呼ばれる呪いのちから。

 常世と呼ばれるうつしよに、闇と魔が境を越えて溢れる刻を。

 

 その刻に。


 唯、魔を闇を防ぎ現世を守る為にだけ、かれはこの永遠の刻を重ねてきた。

 封呪の巫女のちからを借りて。

 もし、しかし、―――。

 最後の刻が近づいているのなら。


 異界と此の世をつなぐ破れ、は。

 それが深く裂けるときと、そうではない刻があるという。

 そして、その最後の刻。


 深き破れ、が此の世に現れし刻。

 それらは、最後の戦いが訪れる刻を告げ。

 それこそが宿命の終わる最終の戦となると。

 永遠に生き、闇と魔と戦い続ける呪い。

 それが止む刻。


 最後の刻が。


 それが訪れるというのならば。

 それは唯の希望であり。

 終わりを希む、己の唯の希望。




 黒城は、唯、海を其処に望むように。

 まぼろしの海を望むようにして、一人座し離れより庭を眺めていた。

 其処に海はありはしない。





 

 黒城が望む最後の刻が。

 

 ―――はたして、まぼろしの海は其処にあるか。

 






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