「鼓動」
静かに、鼓動は刻まれている。
鼓動、大地、血流、―――――…。
もしくは、唯、それらは唯一つのリズムを生み出す為の、何か、でしかないのかもしれない。
遠く響く、刻まれた音が。
近付いてくるのを、…―――。
「黒城海将補」
「何か」
しずかなまなざしで応える精悍な風貌の相手が持つ存在感に、呼び掛けた尉官が緊張して答える。
「はっ、…御連絡が入っております。―――本多一佐より、」
「そうか」
穏やかに応え、緊張する相手に穏やかに促す。
「わかった。下がっていい」
「はいっ!畏まりました!」
緊張して敬礼して去って行く背を、僅かに困ったものをみるように見送ってから、デスクの左脇に置いた電話の内線三番が点滅しているのをみる。
軽くためいきをついて、少しばかり微苦笑を零して、その内線をとる。
「どうした」
穏やかに見あげて問い掛ける黒城に、背の高い相手がにっこりと微笑む。会話が終わるのを計っていたかのように現れた相手に、多少あきれながらみている黒城に。
「いえ、何でもありませんが」
にこやかに微笑んでいってみせる相手に、黒城がためいきを軽く吐く。
「おまえな。…本多が会いたいといってきた。おそらく、あの件についてだろう」
「お会いになる」
「…樋口」
多少あきれた風にいって仰ぐ相手――――樋口一等海佐に。
黒城の傍に控えるように立ち、常に誰にでも人当たりが良いといわれる相手の困った微笑に、もう一度息を吐く。
「気に入らないか?」
「いえ、勿論、―――…決断されるのは、黒城将補、あなたの仕事ですから」
「おまえは本当にな。わたしにはどうしてそう人当たりの良い態度をみせないんだ」
「みせてほしいんですか?」
訊ねてみせる相手に視線を逸らして部屋の天井を眺めてみる。格子細工の木組みの天井は寄木細工で幾つかの幾何学模様を作っていて、視線を逸らして眺めるには最適の作りだ。
伝統工芸というのは、わるくないものだな。
四辺の升数を数えて計算してみたりとなどしながら、視線をあわせずにくちにする。
「おまえも来い。今晩、あの男の家で会うことになった」
「御了解頂けましたか」
微笑んでみせる樋口を振り向いて、困った顔でみる。
「おまえな」
「いずれにしても、御供させていただくつもりでしたが」
「…おまえに事後承諾で出掛けて、事を大きくしても困るからな」
「御理解頂けているようで、何よりです」
「―――――心配する必要はない。本多の処は、警備もしっかりしている」
「わかっています。ですが、私にもあなたの警備を担う責任がありますので」
穏やかそうに微笑んでみせる樋口の内心がまったく笑っていないのがわかって、黒城が軽く額を指先で押さえて瞳を閉じる。
何にしても、だ。
そうして、視線をあげて樋口をみる。
「樋口、何れにしても、いまはあちらの警備の方が、おそらく日本の何処よりも厳しいものになっているぞ?何しろ、御曹司がきている」
楽しげにいう黒城に樋口があきれたように軽く眉を寄せてみせる。
「例の御曹司ですか」
「かれに何かあれば、アメリカの関係者が黙っていない。私も、ローズ准将を怒らせたくはない」
悪戯気に黒瞳に笑みを乗せていう黒城に、樋口があきれる。
「確か、そのローズ准将、少将に昇進されるとか?」
「そう聞いている。その話も今晩あるだろう。本多からな」
「スピード出世ですね。昨年まで、中佐で」
「あれは、いやがって拒否してたんだ、昇進を。そうも我儘が利かない環境になったということだろう。いやな話だが」
まだ若い―――実際に、その階級に本来就くはずの年齢に比べれば、非常に若いといえる―――黒城将補の顔を樋口が眺める。
この年齢で将補になるというのは、本来ならば有り得ない人事だ。その黒城より一つ年下の樋口が一佐であるのは、まだ早い方であるとはいえ、なくもない事だが。
特段の事由があるが故に、強引といえる程の手段がとられて、本人の意思には完全に反して昇進させられた黒城をみて。
「あなたも、御嫌ですか?昇進したのは」
「勿論だ。准将が新設されてくれれば、将補にはならずに済んだんだ。大体、おれみたいな若造が将補になるのはどうかしている」
人事だから仕方ないけどな、とためいきを吐く黒城に。
「いえ、確かに御嫌だったかもしれませんが、先方が少将になるというのなら、昇進を受けておいて頂いていてよかったですよ。かれが少将になるというのなら、あなたには少なくとも将補でいてもらいませんとね」
将補と少将が同等とみなされるプロトコルを思い出して、黒城がいやそうに眇めた視線になる。
「そういう体面とかいうのはどうでもいいんだが」
「あなたはどうでもいいかもしれませんが、組織としての体面というものですからね。士気にもかかわります」
「おまえ達の為に、こういう格好をつけている訳ではないのだが」
左の肩章を軽く二本揃えた指先で叩いてみせる黒城に樋口がにっこりと微笑む。
「大事なことです」
「…――――」
いやそうに横を向く黒城に微笑んで。
それから。
「いずれにしても、本日は私が警護させて頂きます」
「わかっている」
真面目な顔になって、あらためて黒城をみていう樋口に。
穏やかな顔で黒城が見返す。
「はい」
しずかに微笑む樋口に、その微笑が作ったものでないことに。
そうして、何より。
背を預けること、隣に立つこと。
それが穏やかに凪ぐ海のように。
あるいは、唯当り前の日常であるからこその。
――おまえがいなくては、始まらないからな。
そう常に思うことを、くちにするのはやめて。
「頼む」
そうとだけ、黒城はくちにして、中断していた書類に目を通す仕事に戻っていた。
穏やかな日常に吹く風を、予感させる何事かが近付いてきているのだとしても。
その鼓動を刻む音が、近付いて。
何かが、はじまるのだとしても、…――――。




