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1.起きろ!朝を告げる鐘が鳴る

 タイトルは『最強バッファーはもう疲れた~魔王を倒すまではスローライフどころじゃない~』で書こうとしましたが、ちょっと書いてみたら全然違うものになる展望が見えたので、やめました。

 ドラゴンが吐いた業火が、人間の身体を一瞬にして消し炭に変えた。

 彼女は振りかぶっていた剣だけを残して消えた。僕は熱と影の残る剣を抱いて駆けた。

 僕は見ているだけだった。昔も、今も、きっとその先でも。過去を変えることはできない。

 幻聴が聞こえる。この場では、この洞窟では聞こえないはずの、過去にとっては未来の言葉。

『勇者パーティの唯一の生き残りだと聞いてたのに、とんだ木偶の坊じゃないか!』

 ――違う。あの子は勇者なんかじゃない。

『連れて行ったのに使い物にならなかったんだ、こいつ。仲間が戦ってた隙に、逃げ出したんじゃないか?』

 ――そうだ。僕を蔑むのはいい。いくらでも罵ればいい。その通りだ。僕はそうされるべき人間だから。

『勇者だなんて呼ばれてたなんて、とんだお笑い草だな!』

 ――お願いだから、あの子を悪く言うのだけは――


   * * *


 マロンの身体を気持ち悪い汗が身体を覆っていた。じっとりとした、新鮮なアンデッドの皮が張り付いているような感覚。実際に張り付いているのは服だ。剥ぐようにそれを脱ぎ、床板が軋まないように慎重に廊下を歩く。

 外は未だ暗かった。最初の雄鶏すら鳴かない時間だ。だがそろそろ空の端が白んでくる頃だろう。これ以上暗いのは嫌だ。そうであってほしいという、彼のただの願望だった。

 星明りを頼りに中庭まで辿り着き、石造りの井戸の縁に腰かけ、服を翳しつつ中にいる水の精に祈る。昼であれ夜であれ水の精が眠ることはない。静かな夜をどのようにして暇を潰しているのだろう、と疑問に思う。思うだけだ。祈る手は止めない。

 水の精が清めの魔法を掛け終えて、服は彼の手元に戻った。火の精や風の精ならばもっと早く出来るだろうが、彼は綺麗になった服に袖を通すときの冷ややかさを愛していた。それに加え、この水の精とは修道院での祭祀に関係なく、定期的に交流することにしていた。彼の一族の祖は妻である水の精をぞんざいに扱って死んだ。先祖と同じ罰が当たらないように努力する理由にはなる。

 理由が無きゃ何しちゃいけないってのかよ。彼は自らの思考に対し毒づく。夜は思考が内向きになって駄目だ。長い溜め息を吐き、それからふと思いついたように君のせいではないと井戸の中に弁明する。この井戸水の精は気にしいだった。そうして彼は水の精にじゃれつかれ、全身を靴の中まで清められた。

 空の縁が白んできた。先走った鶏が咳のような声を立てた。水の精にいとまを告げ、彼は立った。そろそろ教会の鐘が鳴る。頭に響く声音は身構えれば耐えられる――鐘の音は不信心者に頭痛を与えるという、神を信じていない者に存在を知らしめるものだ。誰であってもこの音には辟易させられるだろう。何せ獣除けの魔法がかかっている。

 仕事の時間だ。マロン・メルランは水の精に纏わりつかれて冷え切った彼の名の通りの暗い栗毛を掻き回し、狭い自室に戻って身支度を整えた。

 シャツのボタンを留め、枕元に引っ掛けていたベストのポケットに硬貨がいくらかとパンの欠片が入っていることを確認してから、パンの欠片を口に含みつつ着る。八年程連れ添った平べったいカバンの中身を昨日と同じかどうか確かめてから背負う。最後にズボンのベルトに今の自分には必要がない、使い物にならない剣を下げ、外套を羽織る。今身に付けたものが彼の全財産である。修道士になるならこれを全て手放さなければならない。それは彼には決して出来ない。特に剣は他の誰の手にも任せられない。今は他の誰でもない、彼のものだ。

 音の反響が残る鐘楼に上り、鐘にかかった獣除けの魔法を調整し、魔法の遠眼鏡であたりを見回す。下の街にあるほどの大きさの世界の穴は、幸いにしてこの近くでは発見されていない。見つけたらまた塞がないと、何か事故が起こってからでは遅い。今日は一つ、新しいものを見つけた。鐘楼から降り、森の中へ歩く。

 地の精に祈りを捧げ、針の孔ほどの小さな穴を塞ぐ。この虫食い穴を金儲けに使うことを考える人間もいるが、人の命は金に換えられない、というのが彼の心情だった。何にせよ、この修道院の規模では虫食い穴を利用できないし、誰でも利用できるほどに広がればこの森が落ちる。周りに今しがた虫食い穴から出て来たものの気配はない。

 朝の一通りの仕事の終わりになって、彼は修道士たちが経を読んでいる聖堂に忍び込んだ。彼は修道士ではないから、祈りに参加するのは自由だ。端のほうには信心深い近所の農民もいる。彼は後ろの方の開いた席に座り、薄い経典を手に置き、一通り修道士の祈りの声を聴き、しばし微睡んだ。彼は修道院に間借りしているにしては信仰心が薄く、呑気だった。

 彼が住むこの世界は四角く、寝かせた蛇腹折りの経典の表紙を掴んで持ち上げたのと同じ形をしている。彼と同じ、常にポケットに置いてしわくちゃになった簡易的なものでも、修道院長の前に置いてある重い木でできたものでもいい。絶対に、後世に作られた、注釈が入っている冊子の形をしたものではない。

 先程彼が塞いだように、重い木でできたものにも、彼が持つ拙い“マロン・メルラン”の署名が付いたしわくちゃのものにもあるように、この世界にも虫食い穴がある。始めは何でも小さな虫食い穴で、人の手でも塞げるほどであるが、放って置けばどうにもならないほどに広がる。

 彼が経典をぱらぱらめくり、その唯一の虫食い穴を見るたびに、夜見た悪夢を思い出した。咳を堪え、腹の外に不要な分泌液を飲み下す。朝の読経が終わるのを静かに待ち、客人が席を立つのを待ってから、彼自身も聖堂を出た。

 次の仕事のために修道院からのいろいろの品物を抱え、二人の修道士と共に数時間かけて山を下りる。今日は馬は借りない。修道士と共に動くときは馬は使えない。自分の身体が馬代わりだ。

 マロン・メルランは本来冒険者である。彼らが今まさに降りていく街のように、世界に開いた虫食い穴から湧き出るモンスターを狩り、虫食い穴に侵された区域を探索し、人の手に再び取り戻すことを生業としていた。現在の彼はいいように言えば休みの時期で、修道院の厚意で客間の一室を借り、仕事の手伝いをして暮らしていた。修道士と連れ立ちモンスター除けの祈りを唱えつつ道を行く。

 小さなモンスターが道に迷い出た。彼は修道士の前に進み出て、このあたりの地の精に頼み、このモンスターを元の場所に戻すように言った。殺すことも出来るかもしれないが、彼らにはモンスターの死体を生かすすべがない。あまり待たずに祈った通りになり、彼らは街への道を再び歩き出した。

 手に負えない虫食い穴が、今から降りる町の近くにも一つある。昔はこうじゃなかった。昔は小さい虫食い穴しかなかった。人の手に負える程度の虫食い穴。

 今は違う。“魔王”と呼ばれる埒外の存在が、ここより地に近い島国から噴出して三年程度。人の手に余る虫食い穴が次々と開き、世界の境は曖昧になった。

 人々は広がり切った虫食い穴にも、モンスターの存在にも慣れてしまった。

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