第五章 現代パート「神域の番人」
福岡、宗像の海辺にある小さな宿泊施設。その窓から紫苑は玄界灘の夜明けを眺めていた。
水平線には深い藍色の残滓がまだ漂い、その手前に淡い霧が海面を這うように広がっている。沖ノ島は霧の向こうにぼんやりとした影となり、神域の沈黙を湛えていた。
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沖ノ島へドローンを飛ばして以来、紫苑はまともに眠れていなかった。未知なる真実へ触れた興奮と、まだ解き明かせていない謎への予感が、彼の胸を夜通し震わせていたからだ。
デスクには、夜を徹して飛行した無人機が捉えた膨大な映像データが展開されていた。高性能カメラは、神域の壁を越えて、まるで「神の視点」から島を覗き込むかのように、ありとあらゆる角度から微細な地形や植生、地層の情報を記録している。
モニターに映るのは、風と波に削られた断崖絶壁。荒々しい岩肌は数千年の時を語り、その隙間に根付く苔や草花が生命の持続を示していた。
「イオナ、解析は進んでいるか? 気になる点はあった?」
紫苑はホットコーヒーを口に含んだ。苦味が神経を刺激し、疲労の色を薄める。モニター上では沖ノ島の三次元モデルが青白い光を帯び、息づくように浮かび上がっていた。亀裂の一本一本、苔の生え方、風で削られた窪みさえ再現されている。
【はい、紫苑様。ドローンが取得した地形・地層・岩石の配置を、和真様の残した記号と照合したところ、興味深いパターンを検出しました。】
イオナの声は淡々としていたが、その奥には高揚感が滲んでいる。情報処理を超えた共振のような響きに、紫苑は人外の相棒が同じ探求者としてここにいることを感じた。
紫苑は指先でモデルを操作し、植生を透過して裸の地表を露わにした。そこには、衛星写真では把握できない無数の岩が並んでいた。不自然なほど規則的な配置。それは文様、あるいは巨大な文字のように見えた。地上からでは決して全貌を掴めない壮大な地上絵。
「……和真は、沖ノ島そのものを“鍵”にしたのか。これは文字ではなく、島そのものが未来へのメッセージであり“航路図”なんだ。」
紫苑の声は震えていた。イオナの解析と重ねた古代の星図が、島北西部の小さな岩屋周辺の並びと完全に一致していた。偶然ではない。和真は未来の探求者が現代の技術を用いて解き明かすことを予見していたかのように、島を設計していたのだ。
【古来、宗像の海人族は岩を航海の目印としました。しかし、この配置は単なる標識以上の意味を持つようです。巨石は神の依代、世界を支える柱とされました。和真はその信仰を利用し、盟約を封じたのでしょう。】
イオナの声は機械的な分析に始まりながらも、最後には微かな畏敬を帯びていた。
紫苑は目を閉じ、想像を巡らせた。千年前、和真は幼い比古、宗像の海人たちとともに岩屋へ証を隠した。荒波の轟くその場で、彼らは何を祈り、何を誓ったのか――。紫苑の胸に鮮烈な映像が浮かんだ。灯火に照らされた岩、濡れた衣、押し寄せる波音。彼らは岩に触れ、未来へと沈黙の誓いを刻んだのだろう。
「和真は……記録を文字に残すことを恐れたのか。争いを呼び、真意を歪めることを避けたのか。」
紫苑の視線はスクリーンに釘付けになった。そこに映るのはただの地形ではなく、父の言葉に重なる人の意志だった。
「歴史は文字だけで理解できない。その時代の人の心を五感で感じ取れ。」
紫苑は今まさにその真意を体験していた。
【和真は歴史の潮を知っていたのでしょう。争いと平和は潮のように繰り返される。だからこそ“空白”の時代に平和への航路を、大地と心に刻んだのです。】
イオナの言葉に紫苑の胸は震えた。歴史とは記録ではなく、未来へのメッセージ。彼は今、その伝言を受け取っている。
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紫苑は椅子に深くもたれ、窓の外を見やった。霧はまだ海面を覆い、その中で沖ノ島は揺らぐ幻のように姿を見せていた。
コーヒーの残り香と潮風の匂いが混じり合う。まるで過去と現在が一瞬で交わるような感覚に、紫苑は身震いした。
【紫苑様。岩屋の内部を解析したデータを拡張表示します。】
イオナの声が再び響いた。無機質でありながら、わずかな感情の余韻を帯びる。スクリーンに浮かび上がった岩屋の内部は、自然にできたものではないような幾何学的な美を備えていた。岩の割れ目は天井の隙間からの光と重なり、まるで古代の人々が意図的に設計したかのように見える。
【これは偶然ではありません。和真は“岩屋”を記号の器としたのです。島の岩屋と宗像の岩屋――二つで一つの門。時間を越えて閉じられた扉を、今、紫苑様が解こうとしています。】
イオナの言葉に、紫苑の心臓が強く脈打った。二つの岩屋は、千年の時を隔てて繋がる“対の門”。その先に広がるものは、単なる過去の記録ではなく、人の営みと祈りの総体なのだろう。
「和真……あなたは、未来の僕にこの扉を開かせたのか。」
紫苑の呟きは、波音にかき消された。しかしその胸には、確かな熱が宿っていた。自分の旅は記憶を追うものではなく、同じ地平に立ち、未来を切り開くためのもの。
宗像大社の岩屋がスクリーンに並んで映し出される。二つの岩屋が重なり合う光景は、紫苑の瞳の奥で一筋の航路となり、暗い霧を貫いて伸びていた。
【沖ノ島は神域として今も人を拒みます。しかしドローンは壁を越えました。そして和真の手がかりは、次の場所――宗像大社の境内にある岩屋を示しています。沖ノ島の岩屋と酷似した配列。両者は一つの巨大な法則を成しているのです。】
画面に宗像大社の岩屋が現れた。古木に囲まれたその小さな岩屋の姿は、沖ノ島の景観とシームレスに重なり、まるで二つで一つの大きな符号を成しているようだった。
紫苑は深く息を吸い込んだ。霧を裂く航路は宗像へと続いている。神域を越えた今、和真の核心に触れる時が来た。
「行こう、イオナ。ここからが本当の旅路だ。」
声には疲れも迷いもなかった。紫苑の目には、未来への航路が確かに光っていた。




