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第四章 古代パート「盟約の始点」

~時を超えて~


その日、北の海に、見慣れない影が現れた。

鋭い船首、厚い板、鉄の留め具。鳥の群れのように連なって、宗像の沖に静かに停まる。見張りの声が走り、村の男たちが砂丘の影に身を低くする。言葉は通じない。だが彼らの目は、海図を読む目をしていた――波の摺り寄せ、風の筋、潮目の縒れ、すべてが彼らの言語らしい。


長老は人々を集め、かつての教えを口にした。

「海はいつも穏やかではない。嵐の前に縄を結び直すのが、海の掟だ」


比古の胸で、火が小さく跳ねた。嵐は、外からだけ来るのではない。――沈黙の下で息を潜めていた渦が、いま、形を取ろうとしている。

──────────────────────────────

砂浜に出ると、北の船団から一艘の小舟が降りてきた。

先頭の男は高い体躯に毛皮を羽織り、腰に見慣れぬ鉄剣を帯びている。風が止み、波が一呼吸だけ合図を待つように静まった。比古は父の剣を抜き、刃を太陽へ一度だけ向けた。光が面に走る。敵意ではない、ここにある火が消えていないことの合図だ。


北の男は、その光を見て目を細め、自らの剣を抜いて砂に突き立てた。

比古は歩み出て、男の剣の隣に、自分の剣を同じ角度で静かに刺した。二本の刃の間に、風が細い音を立てる。言葉のない儀式。刃は互いを向かず、同じ方向を向く。――それが、この場での「誓い」になった。


ひとつの音が解けるように、人々の肩から力が抜けた。

北の男は胸に手を当てて名を告げる。固い響きの名は波に砕け、意味は取れない。代わりに彼は掌を開き、鉄の留め具、繊維を締める小さな金具、火打ちの石を見せた。比古は掌に砂を盛り、そこに貝殻の粉を混ぜて示した。海の道具は、海のものから作る。


言葉は少しずつ、物と所作でつながっていく。

「チ(鉄)」「ミズ(水)」「コト(ことば)」。北の男は発音を確かめるように繰り返し、比古は「シオ(潮)」「ホシ(星)」「フネ(舟)」を教えた。夜、焚き火の周りで互いの歌が交じる。旋律は違うが、拍の底に同じ海の速さが流れているのを、誰もが感じ取っていた。

──────────────────────────────

やがて、互いの剣を見せ合うときが来た。

北の民の鉄剣は重く、厚く、力で相手を圧するためのものだった。

比古の剣は細身で、刃文は波が寄せて返すように揺れ、柄頭には小さな宝玉が埋め込まれている。

鍔には見慣れぬ幾何文様が彫られ、鞘の縁は淡い金色で縁取られていた。

光を受ける角度によって刃は青みを帯び、まるで水面に映る月のように揺らめいた。

その異様さに、北の男は思わず息を止め、敬意とも畏れともつかぬ影を瞳に宿した。


二本を並べて地に立て、火の粉を散らす。比古は父の言葉を思う――剣は殺すためのものではない、道を示すためのものだ。北の男は、己らの古い賢者が同じことを言った、と胸を叩いて示した。遠い土地、遠い言葉、だが同じ真。火は離れていても同じ温度で燃える。


村の者たちは、まず舟から手をつけた。

宗像の舟は軽く、潮に合う。北の民は、肋骨のような骨組みに鉄を添えて強度を上げる術を持っていた。板の合わせ目に樹脂と繊維を挟み、鉄の留め具で締める。比古はその手際に目を見張り、北の男は宗像の舟が風を受けて身を捻る術に舌を巻いた。潮は速さだけでなく、しなやかさを要請する――その理解が二つの民の間で共有されていく。


次に、夜の道を磨いた。

星の名は土地ごとに違えど、巡りは同じ。比古は幼い頃から覚えた星々の呼び名を指で示し、北の男は別の呼び名を重ねていった。言葉は一致しないが、指し示す場所は重なる。やがて彼らは、星図と潮の表、風の通り道を一枚の板に刻み始めた。板は夜になるたび焚き火の傍に置かれ、煙に燻され、手の脂で艶を増す。道は、火と手で養われる。


ある夜、比古は焚き火の向こうに座る北の男に、父の死を語った。

畿内と筑紫の疑心、その間に挟まれた和真の最期。真実が意図的に封じられ、村が沈黙を選んだこと。言い終えるまで、男は火に小枝をくべる以外の動きを見せなかった。やがて、彼は低く、ゆっくりと語り返した。自分たちも鉄の到来で多くを失い、長い争いののち、ある老人の言葉で剣を地に伏せたのだと。


「剣は、人と人の間に橋を架けるために使え。血の川に橋は架からぬ」


比古は火の音の間に、その言葉を何度も反芻した。

父の遺した剣は、彼にとって失われた時への錨だった。だが同時に、まだ見ぬ時へ伸びる舫い綱でもあったのだと、いまは分かる。剣は、過去を繋ぎ止めるためだけにあるのではない。未来へ渡すために、ここにある。


やがて、ひとつの式が定まった。

砂の上に二本の剣を並べ、刃を同じ方角へ向ける。間に海藻をひとつ置き、その上で塩をひとつまみ落とす。火から煙を剣にくぐらせ、最後に潮を指で弾いて、刃の面に小さな水の輪を作る。言葉は要らない。火と塩と水が、それぞれに「よし」と頷く。――これが、彼らの盟約の形になった。

──────────────────────────────

船は季節の底に潜って強くなり、航路は少しずつ延びた。

東へ向かう細い線が、夜ごと板の上で太くなる。危険な浅瀬は火で印をつけ、風の裏道は星で記す。比古は父の剣を舟の跨ぎの下にくくりつけ、航海の間じゅう足の裏でその温みを確かめた。刃は黙っているが、黙ったまま道を示すことをやめない。


長老はときおり比古を呼び止め、問いを投げた。

「真実は、いま語るべきか」


比古は答えられない。沈黙は村を守った。だが沈黙は、未来の舌を凍らせもする。火に塩を一つ落とし、はぜる小さな音を聞くたびに、胸の奥の綱が少しずつきしむ。――いつか、この綱を誰かに渡さねばならない。

──────────────────────────────

ある朝、比古は剣を両手で掲げ、海に向けて立った。

夜明けの光が刃を薄く染め、波の縁に金色の線を置く。父の最期の地は、潮の下に伏せられたままだ。だが、そこへ向かう道は確かに開き始めている。ほかならぬ自分の足で、そして他者の手とともに。


浜へ戻ると、北の男が新しい板を差し出した。

そこには、星と潮と風で綴った、いまだ誰も通ったことのない線が刻まれていた。比古は頷き、板の端に貝殻の粉で小さなしるしをつける。これは、火を運ぶ道、潮が火を消さぬ道。未来の誰かがたどるための、見えない橋。


潮は止まらない。

波は、昨日の砂をさらい、今日の砂を置く。剣の刃は水を弾き、やがて乾き、また濡れる。そのたびに、比古は確かめる。――過去の残響は消えない。残響は方向を持ち、道標になる。火は受け渡すことで強くなり、潮はそれを運ぶ。


そして比古は知る。

父が最後に守ろうとした「秘策」は、特定の誰かの勝利でも、どこかの王の安寧でもない。異なるもの同士が、互いの火を消さずに近づく術――その式そのものだ。剣は、いまもここにあり、刃の面で新しい光を受け取っている。


遠くで、北の船団がゆっくりと帆を揚げた。

風は東へ向いている。比古は剣の柄に手を置き、胸の内で短く祈る。

――父上。あなたの残した火を、私は潮の上で運ぶ。名を呼ぶ誰かが、いつの日かこの道を渡れるように。


波がひときわ高く息をし、浜の線を少しだけ描き直した。

その新しい線は、朝日の中で細長く伸び、どこまでも続いていくように見えた。


                    第四章 了


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