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第三章 現代パート「過去の残響」

東京の夜は、暗い水面に散らばる光粒のようだった。

ビルの窓の明滅は星座のように結び合い、首都高を走る尾灯は赤い潮流となって街の骨格を縫う。地下鉄のガラス越しに流れる景色は、海底から仰ぎ見る夜空に似て、紫苑はその奥に、遠い時代の呼吸を聴き取ろうとするように目を凝らした。

──────────────────────────────

スマートグラスの内側で、極薄のインターフェイスが開いた。

点は光になり、光は線になり、線は網目になって列島を覆う。畿内から九州へ、瀬戸を渡って吉備へ、鉄の匂いを抱いた出雲から、潮の関所・対馬へ――イオナが史料と考古学的断片、伝承の欠片を編み直して描いた「空白の地層」の地図は、静脈のように脈打っていた。


【紫苑様。和真の旅路は、宗像の海辺で途絶えています】


イオナの声は透明で、しかし水底の石のような重さを帯びて胸に落ちた。

網目の航路は、玄界灘に面した宗像で突然、音を失う。そこだけが、歴史の頁を誰かが破り取ったみたいに、白く剥げている。


「……空白、か」


【はい。欠落は偶発よりも、むしろ意図の匂いが濃い。和真が宗像へ持ち帰った“秘策”が後世にとって不都合だったのか、あるいは彼の死の真相が、特定の権力にとって危うかったのか】


「誰かが、光を消した……」


【光は消されても、熱は残ります。痕跡は、層の温度差として沈みます】


紫苑は窓外の東京を見た。

交差点の白い線が潮の切目のように見え、超高層の窓に映る蛍光が、遠い狼煙の名残に見えた。のどの奥に小さな渇きが生まれる。敗北の乾きではない。まだ言葉にならない約束を、喉の奥で探っているような渇きだ。


「イオナ。和真は、最後の瞬間まで諦めなかったのだろう?」


【はい。和平が破れた場合の退路――いえ、次の結び目を準備していた可能性があります。宗像の海人は潮を読む民。網を結び直すには最適の指先です】


「僕たちは、その結び目を探しに行く」


【便を手配します。明朝、東京発で福岡へ。宗像大社とその周辺を小型ドローンと地中探査レーダーでスキャン。滞在先は海風の安定した内陸寄りを選びました】

──────────────────────────────

紫苑は頷き、キャリーケースを開けた。

衣服、充電器、折りたたみのレインジャケット。精密緩衝材に包まれた地中探査レーダーのアンテナと、可変ピッチの四翼ドローン。光学・近赤外・熱の三波長カメラを切り替えるユニット。ひとつひとつを確かめる手つきは、古い祭具を箱から取り出す巫女のように慎重だった。


【出発まで六時間。仮眠を推奨します】


「少しだけ。――イオナ、アラームは三時間後に」


【承知しました。お休みの前に、ひとつだけ】


「なんだい?」


【第一章で掲げた帯――“光の消えた帯”。あれは消失ではなく、変調です。記録を読むためには、当時の海図の調子に耳を合わせる必要がある】


「海図の調子、か。……なら、潮の音で目を覚ます」


照明を落とすと、室内の微かな機械音が、潮の満ち引きのように遠のいた。

眠りに滑り込む直前、紫苑は胸の底で短く祈った。――和真、あなたの見た地図を、いまの僕の手に重ねたい。

──────────────────────────────

アラームは静かに鳴った。まだ夜と朝の境い目にいる時間。

支度を終えると、地下鉄からモノレールへ、都市の光は徐々に滑走路の光へと置き換わる。搭乗口のガラスには夜明け前の雲が薄く貼り付いて、空の肌理が見える。機体が滑り、鼻先で風が音を変え、街の星座が背中側へ遠ざかった。


雲を抜けると、陽光が翼の縁で刃のように煌めいた。

紫苑は目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、七支刀の金象嵌の溝。表に賛辞、裏に密約。表は友好、裏は牽制――二重構造。光の面と影の面が重なって、一本の刃になる。

──────────────────────────────

【着陸の十分前。宗像周辺の地形図を重ねます】


福岡空港。扉が開くと、東京と違う乾いた潮の匂いが、肺に新しい輪郭を描いた。

レンタカーのフロントガラスに海光が跳ねる。道は緩やかにうねり、田の緑が風でさざめく。遠景の水平線は箔のように薄く光り、丘陵の影に古い道の筋が透けて見える気がした。


「イオナ。まず宗像大社へ」


【承知しました。宗像は“海の交差点”です。古くから潮の刻みと祈りが重ねられた場所。和真が最後に頼ったのが“潮の読み手”なら、ここで何かが拾えるはず】

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森の縁に鳥居が立っていた。

結界をくぐると、空気の密度が変わる。樹齢を重ねた幹が、空の高みへまっすぐ伸び、葉の裏で光が微細にちらつく。苔の粒が湿り、石段の縁に薄い水脈が走る。足音が吸い込まれ、代わりに風が衣の内側へ入ってくる。


手水の冷たさに目が覚める。

本殿の前で深く礼をし、掌を合わせると、鼓動の小さな揺れが親指の根元で確かめられた。観光の祈りではない。呼びかけだ。時を越え、潮の向こう側にいる誰かへ。――和真、あなたの見張っていた“潮の番”を、いま僕が受け取れるか。


【周辺に微弱な磁気異常。自然起因か、人工かは未判定です】


「座標、保存。帰路に再走査しよう」


参道を戻る途中、海の匂いが強まる瞬間があった。

風がひとすじ、森の奥から抜ける。潮の線が鼻腔に薄く引かれ、紫苑は反射的に視線を西へ送る。――目で見るより先に、耳で聴け。難升米の言葉が、砂に残る波形のように頭の内側へ浮かんでは消えた。

──────────────────────────────

次は宮地嶽神社へ。

参道は賑わい、土産物の赤や金の色が風に揺れて、現代の喧騒が古い気配の上に薄く塗られている。石段を登りきると、巨石群が息を潜めるように並んでいた。光が角で割れて、影が遅れて追いついてくる。


「イオナ。この石は“ただの岩”じゃないね」


磐座(いわくら)です。神を降ろす座。地中には不規則な反射の帯。水脈か、空洞か、人工の切土か。――確定はできませんが、明日、地中レーダーを走らせれば輪郭が出るかもしれない】


「明朝、日の出前にスキャンを始めよう。光が低いうちに熱の揺らぎも拾いたい」


【了解。ドローンは二機体制、往路は可視+近赤外、復路で熱を重ねます】


巨石の表面に掌を当てると、低い温みが指先に移った。

長い時間が石の中に溜まり、音にできない記憶が匂いに変わって滲んでいるようだ。紫苑はゆっくりと息を吐き、息の白さが目に見えないことを確かめる。――焦らない。記録の調子に、こちらが合わせる。

──────────────────────────────

海沿いの道を戻る。

斜陽が水面の皺をひとつずつ金に縁取り、遠くのブイが点のように揺れる。車内でイオナが明日のタスクを読み上げる。バッテリーの本数、予備のプロペラ、SDカードの空き容量、機材の温調。現実の段取りが、古代の儀礼のように整っていく。


【宿に到着。窓は北西向き、海の眺望。結露のリスクを考慮し、今夜は乾燥を少し強めに設定します】


「ありがとう。ログは逐一保存。今日拾った微弱異常は、明日の走査に優先タグを」


【完了しました】

──────────────────────────────

シャワーの湯が肩を打つ。

熱が皮膚の表で薄く揺れ、耳の裏に潮の残り香が蘇る。タオルで水滴を拭いながら、紫苑は窓際へ寄った。ガラスの向こうで、海が月の薄片を拾い集め、銀の破片を寄せては返している。


「イオナ」


【はい】


「隠すというのは、いつも悪いことなのだろうか」


【隠す行為そのものは、必ずしも悪ではありません。守るための秘匿と、支配のための隠蔽は、似て非なるものです】


「宗像が選んだのは、どっちだろう」


【明日、確かめましょう。――音は、目より先に届きます】


紫苑は微笑んだ。

カーテンを半分だけ閉じ、室内の明かりを落とす。ベッドに身体を沈めると、枕の位置で風の音が少し変わり、空調の低い唸りが波の返す音に混じった。瞼の裏で、網目の航路が淡く灯り、宗像の一点で一度、細くほどけ、すぐ脇に別の細い糸が芽吹く光景が見えた。


眠りに滑り込む寸前、紫苑は心の内側で小さく言葉を編んだ。

――和真。あなたが耳で聴いた潮の調子を、僕は機械の耳でなぞる。もし真実が守るための秘匿だったなら、その意志を継ぐために。もし支配のための隠蔽だったなら、その縄目をほどくために。


【紫苑様。おやすみなさい】


「おやすみ、イオナ」


窓の外で、海がひときわ大きく息をした。

残響は消えない。音は内に集まり、やがて名を呼ぶ。明日の朝、最初の走査で拾う最初の微かな揺らぎ――それが、次の頁を開く指になる。紫苑はそう信じながら、静かな闇に身を委ねた。

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