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第二章 現代パート「空白の地層」

東京の夜は、黒い岩盤に無数の光の粒が埋め込まれたようだった。紫苑は、スマートグラスの中に浮かぶ日本列島の立体地図を眺めていた 。光点がひとつ、またひとつと浮かび、やがて点と線が織りなす網目となる。畿内、九州、吉備、出雲――かつて力を競ったクニグニが、静かな呼吸のように瞬いては線で結ばれる 。

──────────────────────────────

【紫苑様。これは、“盟約”の可視化です。難升米を中心に結ばれた結び目は、倭国の基盤を築き上げました】


地図上の線は、初めは太く、明るい。だが、ある一点から色が淡くなり、やがてほつれていく 。


「……緩んでいる」


【はい。難升米という要を失い、結び目は緩み始めました。霊威ではなく約束で結ばれた網は、支える者がいなければ、潮にほどけてしまう】


紫苑は眉間に皺を寄せた 。


「盟約で国はまとまったはずだ。それでも、どうして?」


【盟約は新しい統治の始まりでしたが、均衡は脆弱でした。畿内の王は“盟主”としての権威を誇示し、九州や出雲の古い勢力は従属を良しとしません。彼らは盟約を破り、再び覇権を争い始めます】


イオナの声は淡々としていたが、その下には、冷たい潮の流れのような緊張が潜んでいた 。

──────────────────────────────

紫苑は、空白期の姿を心に描こうとした 。


「それは……史書には残っていない戦い、だな」


【ええ。しかし考古学は、その沈黙の底から証拠を引き上げています。その一つが、奈良・石上神宮の七支刀です】


地図が淡く溶け、古びた鋼の刃が浮かび上がった 。刃は七つの枝を左右に伸ばし、中央の幹は金象嵌の文字で埋め尽くされている 。


【表面の銘文をお示しします】


七支刀銘文(表)

“泰和四年五月十六日丙午正陽造百練鋼七支刀出辟百兵宜供供侯王永用”


口語訳

“泰和四年、西暦369年、百練の鋼で七支刀を造った。あらゆる兵を退ける。侯王に供奉し、永く用いよ”


【この銘文に記された“侯王”という語が、解釈の鍵となります。百済はあえて“王”ではなく、冊封体制における格下の呼称である“侯王”と記しました。これは百済が優位であることを示す外交的意図が考えられます】


紫苑は画面を凝視した 。七支刀の刻まれた「侯王」という二文字に視線を留めた。

それは盟友を示す称号であると同時に、臣下の地位を暗示するものでもある。その二重性は、倭王の立場を常に揺らがせ、心を縛る鎖のように機能したのではないか――


卑弥呼の「光」が国を照らしたように、この刀には「血」が滴る歴史が宿っている。

光と影、その両方を受け入れることが、紫苑に課せられた新たな試練のように思えた。


「……つまり、百済の王が倭王を、臣下に近い立場として呼んだということか」


【一つの解釈です。しかし逆に、これを“盟友”や“軍事協力者”としての呼称と見る研究者もいます。倭側は、百済と公式な盟約を結んだという事実を国内に示し、自らの権威を高めるために、あえてこの呼称を受け入れた可能性もあるのです】


「裏面の文字が残っていれば、百済が何を倭に求めたか、もっと明確になったはずだな。」


【百済の背後には常に高句麗の影がありました。四世紀前半、高句麗は南下を進め、百済の領土を圧迫していた。そのため百済は倭国に援軍を求めてきた。さらに大陸では五胡十六国時代の混乱が続き、東アジアの外交は不安定極まりなかった。倭の動き一つで半島全体の勢力図が変わり得る状況だったと言えます】


さらにイオナは続けた。


【一説では、裏面は百済からの"密約"を記していたとも言われています。表には外交儀礼としての賛辞を、裏には軍事同盟や交易条件など、より実務的な文言があった可能性です】


紫苑はARに映る表裏の文面を見比べ、ふと呟いた。


「表は友好、裏は牽制……二重構造だな」


【七支刀は戦の道具であると同時に、文字を刻んだ“刃の書簡”です。百済と倭が手を結び、朝鮮半島の戦局に介入し、その見返りとして国内の争いを抑える――その試みの痕跡です】


369年、朝鮮半島では高句麗が南下し、百済は防衛に追われていた 。南方の任那地域も緊張を増し、倭の動きは半島情勢の均衡に直結した 。一方、大陸は五胡十六国時代の真っただ中で、遠方からの支援は望めない 。


「つまり、百済は生き残るために、倭を背後の盾として選んだわけだ。」


【はい。そして倭にとっても、百済との同盟は半島南部の港を確保する意味を持ちました。鉄、馬、そして人材。すべてが海を渡ってきたのです】


紫苑は静かに息をつき、古代の交渉の場を想像した。そこでは刃が言葉の代わりとなり、火と潮が外交を形づくっていたに違いない 。


【そして、それは国内の一部勢力を不満にさせました。盟約を巡る理念の綻びと、外交の選択が、空白期を形づくったのです】

──────────────────────────────

紫苑は静かに目を閉じた。刃に刻まれた文字が、海と血と風の匂いをまとって迫ってくる 。


「空白の地層……その中には、戦いの化石が埋まっている」


紫苑は刃の金象嵌を指先でなぞるように視線を滑らせた。文字の溝に、かすかな波音が満ちてくる。【時を超えて】という章題が、ARの端で淡く揺れ、潮騒の方角へと開いていく。

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