第十章 古代パート「盟約の継承者」
登場人物
・比瑪
父・比古と母・沙羅の間に生まれた、倭国と新羅の血を引く盟約の継承者。
~時を超えて~
比古と沙羅は、娘を「比瑪」と名付けた。それは、比古が初めて沙羅と出会った岩屋で、彼女が砂に記した「ひかり」を意味する新羅の言葉だった。二人の命を救い、そして二人の心を結びつけた、あの静かな光。比瑪は、二人の「盟約の光」を継ぐ者として、この世に生を受けたのだ。
比古は比瑪に、父・和真から受け継いだ「盟約の剣」を託した。
「この剣は、争いの道具ではない。お前を守る護符であり、人を繋ぐ橋だ。」
剣の切っ先は、過去の物語を語るように、静かな光を放っていた。
それは、和真が遺した「和」の精神であり、比古と沙羅が築いた「盟約の絆」そのものだった。
沙羅もまた、比瑪に新羅の言葉、歴史、そして外交術を教えた。鉄を打つ音、布を織る手、星を読む眼差し……。比瑪は、父と母、二つの異なる文化の知恵を吸収し、そのすべてを血肉として育っていった。
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だが、彼らの日々は穏やかなだけではなかった。和真が定めた「千年の眠り」を護るため、彼らは常に外の世界の動向に耳を澄ませていた。
比古は倭国の諸豪族との間に張り巡らされた「知の体系」を管理し、沙羅は故郷である新羅から流れてくる情報を密かに受け取っていた。
高句麗が半島での覇権を確立し、南下政策を強める中、百済と新羅は絶え間ない緊張状態にあった。
「比古…、新羅の使者からの報せです。高句麗が、百済を圧迫していると…。」
ある晩、沙羅は顔を曇らせて言った。比古は静かに頷いた。
「高句麗の勢いは、いずれ我らにも及ぶ。この『静寂』を護るためには、新たな盟約が必要だ。」
長老たちは顔を見合わせた。彼らは新羅との盟約を深く信頼していたが、百済とは歴史的な軋轢があった。
「百済は、かつて我らを裏切った。どうして、その国と盟約を結ぶというのか?」
長老の問いに、比古はまっすぐな目で答えた。
「百済が我々を裏切ったのではない。父の死に乗じて、畿内の王が盟約を破っただけだ。百済は、常に高句麗の脅威に晒されてきた。その歴史は、彼らに和平の尊さを教えているはずだ。そして…何より、百済は優れた鉄の技術と、大陸との交易路を持っている。我らの『静寂』を維持するためには、彼らの力が必要なのだ。」
沙羅もまた、長老たちに語りかけた。
「新羅と百済は、互いに剣を交えることがあっても、共通の脅威に立ち向かう知恵を持っています。それは、私たち二人が言葉を越えて理解し合ったように、互いの存在を認め、許し合うこと。その先に、真の和があります。百済との盟約は、この国の未来を護るための、もう一つの光輪となるでしょう。」
長老たちは、比古と沙羅の言葉に深く耳を傾けた。彼らが外との交流を絶つことを選んだのは、争いを避けるためだけではなかった。それは、より強固な和を築くための、内なる準備期間だったのだ。比古と沙羅の言葉は、長老たちの心に、新たな希望の光を灯した。
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やがて、比古と沙羅は比瑪を伴い、九州北岸の港と入り江を巡って海人に挨拶を重ねた。ただし渡海は急がない。対馬と壱岐には書付と贈り物を先に託し、風待ちの浜、潮の癖、寄港できる入江、塩と水の補給地を一つずつ記していく。これは渡海そのものではなく、比瑪の代に備えた「道づくり」である。
彼らは比瑪に、七支刀にまつわる古い伝承を語り聞かせた。七つの枝刃は七つの地と民を結ぶ架け橋――剣は人を裂くためではなく、和を繋ぐための標だと。幼い比瑪は、両親の声の温度とともに、その標の意味を胸に刻んだ。
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比古が45歳、沙羅が40歳になった冬の朝、二人は静かに息を引き取った。
彼らの死は、穏やかでありながらも、千年の時を超えた疲労の末の安息だった。
比古は、日々の重圧で擦り切れた掌を沙羅の手に重ねた。彼の体は、盟約の剣を護るために酷使され、まるで長き航海の果てに座礁した舟のように、静かに、しかし確実にその生命力を失っていた。
沙羅もまた、故郷を離れて異国の地で生き、盟約の光を護り抜くという使命を全うした。彼女の顔は、故郷の砂浜を思い出すかのように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
比古は、沙羅の手を握りしめたまま、かすれた声で囁いた。
「光…比瑪…お前は、我らの道、そして未来…。」
沙羅もまた、比古の言葉に静かに頷き、最後の力を振り絞るように言った。
「盟約は…途切れない…。」
比瑪は、両親の死を深く悲しんだ。だが、その悲しみは、すぐに決意へと変わった。
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比瑪は幼き頃より、他の子供たちとは異なる落ち着きを持っていた。
泣き虫だった幼児期を過ぎると、潮風にさらされた岩の上に一人腰掛け、海の彼方をじっと見つめることが多かった。村人たちは「海を読む目」と呼び、やがて彼女の予見が漁の成否や嵐の前触れと重なることに気づくようになった。
学ぶことに対しても彼女は貪欲であった。父からは剣を手にする際の覚悟と「力を振るう時こそ迷うな」という守人の心を、母からは歌や言葉、異国の礼法を授けられた。幼い手で剣を握るときも、布を織るときも、彼女の眼差しは真剣であり、遊びよりも学びを好む稀有な気質を示していた。
成人に近づく頃には、その資質は周囲にも鮮明に映り始めた。比瑪の語りは年長者の心を動かし、同世代の仲間を鼓舞した。彼女が語る言葉には父の思慮と母の情熱が交じり合い、聞く者に未来を思わせる力があった。
ある時、嵐で損なわれた船の修復に立ち会い、職人たちと共に材を選び、帆を張る手順を整理したことがある。まだ十代半ばでありながら、その采配は驚くほど理に適い、長老でさえ感心を隠せなかった。
比瑪の瞳には、父の深き海を思わせる静けさと、母の烈しき星火を思わせる熱が宿っていた。
両親を失った悲しみは、彼女の心を打ち砕くどころか、むしろ内に秘めた強靭さを目覚めさせたのである。
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比古と沙羅が最後に託した「盟約の剣」は、もはや単なる護符ではなかった。それは、彼女が歩むべき道を示す道標であり、未来を切り拓くための力そのものだった。
二人の葬儀が終わると、比瑪の机には一巻の『航路下図』と、対馬・壱岐の海守へ宛てた書付の控えが残されていた。父と母が生前に整えたのは、渡海そのものではなく、渡るための連絡路と人の縁である。
比瑪は灯火の下でその下図を繙き、寄港の印や水脈の記号を指でなぞった。そこには「急ぐな、準えを重ねよ」と父の手になる走り書きがある。彼女は静かに頷いた。実際の渡海と盟約の正式化は、自分の治世で行う。
そして心に決める――最初の使節は対馬を経、壱岐に寄り、百済の都へ。剣は橋であり、七つの刃は和の光輪。比瑪は両親が遺した道を、自らの足で踏み出した。
比瑪は、両親が命を賭して護った「盟約の光」を、掌に感じていた。それは、彼女の孤独を癒し、未来を照らす、温かくも力強い光だった。
(父様、母様。あなた方の旅は、ここで終わったのではない。その道の先を、私が歩いてみせます。あなた方が遺してくれた光は、私の中に、そしてこの国の中に、永遠に燃え続けている。)
彼女は、遠い海を渡る百済の使者を見つめていた。その瞳の奥には、二人の先人たちが託した希望の炎が、力強く瞬いている。
そして、その瞳に宿る光は、やがて百済から贈られる七支刀を受け取り、倭王旨として歴史に名を刻む未来へと続いていく。
比瑪の物語は、まだ始まりに過ぎなかった。
第十章 了
空白の系譜(古代パート)の旅は、これで完結となります。
空白の時代は、決して失われたものではありません。
書かれなかったからこそ、
彼らは書く代わりに“護る”ことを選んだのだと思います。
比古と沙羅の生涯は、戦いに勝つためではなく、
未来に繋ぐための“静寂”をつくる戦いでした。
彼らの選択は、やがて一人の少女――比瑪へと託されます。
その火は、静かに、しかし確かに大和へと広がり、
次の変革期の光源となるのです。




