第九章 古代パート「宿命の火」
~時を超えて~
宗像の浜辺には、絶え間ない潮騒が響き、冬の冷たい風が松林を揺らしていた。
沙羅が倭の地に辿り着いてから、すでに数年が過ぎていた。比古は二十代後半、沙羅も二十代半ば。二人は互いの文化を学び合い、やがて愛を育み、新しい命――比瑪を授かっていた。
その誕生は、宗像の人々にとって希望の象徴だった。
比古が父・和真から受け継いだ「盟約の剣」を天に掲げたとき、村人たちは涙を流し、沙羅は産声を上げた比瑪を胸に抱きしめた。異なる血が交わり、未来へと続く光が生まれた瞬間だった。
だが、その穏やかな日々は長く続かなかった。
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ある夜、水平線に黒々とした船影が現れた。
新羅の追っ手――沙羅を奪還、あるいは抹殺するために差し向けられた兵船の群れだった。村人の偵察が浜辺に駆け戻り、広殿の中は、火の粉が舞い、緊張で張り詰めていた。
長老の一人が、深く刻まれた皺の間から鋭い眼差しを比古に向ける。
「比古よ、我らは幾度も争いに巻き込まれ、血を流してきた。和真様の犠牲を忘れたのか? 静寂こそが我らを護る道だ。沙羅を差し出すのだ!」
別の長老も声を重ねる。
「この村は小さい。兵はわずか。外の国を敵に回しては、子も女も生き延びられぬ。お前は守人であろう。民を護るために、情を捨てねばならぬ時もあるのだ。」
比古は立ち上がった。
「静寂を守るとは、愛する者を差し出すことなのか! 父が命を賭して求めたのは、恐怖から閉ざす和ではない。人と人が手を取り合う和だ!」
広殿に怒声が響き渡った。
長老たちの目には動揺が走る。だが同時に、比古が父の影を宿していることを誰もが感じ取っていた。
比古は、盟約の剣を握り締めた。
剣の冷たい感触が、父の声を呼び覚ます。
(迷わぬ心を持て――父上…)
だが、迷わずに選べるほど、現実は単純ではない。沙羅を護りたいという男の想い。比瑪を未来へ繋げたいという父の想い。そして村全体を守らねばならぬ「守人」としての責務。比古の胸は引き裂かれるようだった。
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その夜、比古は沙羅に危機を告げた。
言葉は完全には通じない。だが、剣を握る比古の震え、比瑪を抱く腕の強さ、表情に浮かぶ苦悩が、すべてを伝えていた。
沙羅は静かに首を横に振った。
「比古。私は、あなたと共にこの地で生きる。比瑪の未来を護る。それが私の盟約。」
彼女の瞳には、故郷を失った悲しみよりも、この地に根を下ろす覚悟が宿っていた。
比古は叫んだ。
「いや…! 父の盟約は犠牲の上に築かれるものではない! それは、人を繋ぐ橋だ! 君も、比瑪も、僕が護る!」
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夜明け前の浜辺に、無数の松明が揺れた。
新羅の兵が一斉に舟を漕ぎ寄せ、砂浜に雪崩れ込んでくる。弓の弦が軋む音、剣が抜かれる金属音が闇を切り裂く。
比古は声を張り上げた。
「海を信じろ! 潮が我らの盾となる!」
村人たちは合図とともに仕掛け網を引き、舟の行く手を阻む。いくつもの舟が座礁し、兵が海に投げ出された。
比古は剣を閃かせ、迫りくる兵を斬り伏せた。その動きは舞のようにしなやかで、しかし一撃ごとに命を奪う鋭さを秘めていた。
沙羅もまた、しなやかな体術で敵兵を翻弄した。低く身を沈め、敵の足を払う。あるいは素手で剣を逸らし、鋭い蹴りを胸に叩き込む。倭国の兵が彼女の背に守られ、次第に勇気を取り戻していった。
しかし数の差は埋まらない。敵の矢が降り注ぎ、村人が次々と倒れる。比古の腕に深い傷が走り、沙羅の肩にも矢が突き刺さる。
それでも二人は立ち上がった。背中合わせに剣と体術を繰り出し、互いの隙を埋めながら必死に戦い続けた。
比瑪の泣き声が岩屋から響くたび、二人はその声を支えに立ち上がった。
「比古…盟約が…」
沙羅の声はかすれていた。それでも、その瞳は決して折れていなかった。
血に塗れ、地に膝をつきながらも、比古は剣を高く掲げた。
「父の盟約は、犠牲の上に築かれるものではない! 今こそ、真の和を示す!」
沙羅はその手を握り、比瑪の名を心で呼んだ。
その瞬間、剣の文様が眩い光を放ち、二人の身体から炎のような光が溢れ出した。
光はやがて奔流となり、浜辺全体を覆った。
兵たちは目を焼かれるような痛みに悲鳴を上げ、次々と武器を取り落とす。影となった新羅の兵の顔には恐怖が刻まれ、誰もが後ずさりを始めた。
それは炎ではなく、血を求める怒りでもなかった。比古と沙羅の命そのものが燃やし尽くされて放つ「和の光」だった。
村人たちはその光に息を呑み、やがて雄叫びを上げて立ち上がった。
「卑弥呼様、和真様の血は絶えていない! 比古様がここにおられる!」
村全体が奮い立ち、再び矢を放ち、剣を振るった。光に怯えた新羅兵の隊列は乱れ、戦況は一気に傾き始めた。
そこへ、和真がかつて盟約を結んだ海人族の援軍が駆けつけた。舟は潮流に乗って敵の背後を突き、戦況は一気に逆転した。
新羅の兵は混乱し、やがて退却していった。
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戦は終わった。
比古と沙羅は、満身創痍のまま互いを支えた。生命の光は削られ、かつての輝きは失われつつあったが、彼らの心には比瑪を護り抜いた誇りが宿っていた。
比古は傷ついた手で比瑪を抱き上げ、その小さな命に誓った。
「この子こそ、未来の火だ。父が託した夢も、母が示した勇気も、すべてを受け継ぎ、新たな倭を築く…」
沙羅もまた頷いた。
「比古。比瑪は、私たちの盟約そのもの。彼女が生きる限り、静寂は途切れず、未来へ続く。」
岩屋の奥から響く比瑪の泣き声は、悲しみではなく、新たな時代を告げる産声のように広がっていった。
それは「宿命の火」――比古と沙羅が命を削ってもなお守ろうとした、未来を灯す炎だった。
第九章 了