第九章 現代パート「空白の系譜」
福岡の夜明けは、まだ湿り気を帯びた冷たい風と共に訪れた。
沖ノ島での「精神の航路」の体験から一夜が明け、紫苑は市内のホテルの一室で、デスクに広げた資料と向き合っていた。窓の外には、都市の雑踏が始まりかけた朝の光景が広がっている。しかし彼の意識は、まだあの暗く神秘的な岩屋の闇の中に囚われたままだった。
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デスクには、旅の間に収集した映像データ、地中レーダーの波形、三次元モデルのホログラムが乱雑に投影されていた。そのすべてが、沖ノ島の壁画で見つけた象形文字と結びつこうとしていた。
紫苑は、熱いコーヒーを口に運びながら、深いため息をついた。
「イオナ、あの壁画に刻まれた文字……あれは本当に航海記録なんだろうか? 僕には、和真や比古、沙羅が未来に残した“物語”そのものに思える。」
【はい、紫苑様。解析は進行中ですが、文字は単なる記録体系に留まらず、自然現象と人の営みを繋ぐ総合的な知の体系を示しています。潮の満ち引き、星の巡り、風の流れ、岩の配列……それらが一つの言語に収斂しているのです。】
紫苑は、机上に浮かぶホログラムを凝視した。無数の線が星座のように結び合い、点と点を繋ぐ光の網目が形を変えていく。その一部は、比古と沙羅が砂浜に描いたという波と星の文様に酷似していた。
「……やはり。彼らが生きた証は、ただ歴史の空白を埋めるためじゃなかった。未来に向けて“和”の在り方を刻むための言語だったんだ。」
紫苑の胸が熱くなった。
かつて父が語った「歴史は文字を追うだけでは測れない。生きた人の心を感じ取れ」という言葉が蘇る。自分はこれまで史料の断片を追い求めてきたが、いま初めて、人の心と文明の営みを直に感じ取っているのだ。
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紫苑は背もたれに身を預け、しばし瞼を閉じた。
まぶたの裏には、血に濡れた和真の剣を抱いた比古の姿、そしてその傍らに毅然と立つ沙羅の瞳が浮かび上がる。彼らは確かに存在した。文字も血も涙もすべて、この「空白の150年」に封じ込められていた。
【紫苑様。追加解析によって、象形文字の中に“合議”や“共有”を意味する符号が見つかりました。これは、権威による支配ではなく、複数の者が協議して決定を下す仕組みを表していると推測されます。】
「合議制の原型か……。つまり、空白の時代は、権力者の不在ではなく、人々が静かに力を育んだ時代だったということだな。」
紫苑は思わず独り言のように呟いた。
従来の史学では、空白期は「停滞」とされてきた。しかし今、彼の目の前に現れているのは、むしろ「熟成」の時代だった。外の大国との関わりを断ち切ることで、倭国は自らの文化と政治体制を静かに練り上げていたのだ。
紫苑は改めてモニターを操作し、沖ノ島の岩屋の壁画を拡大した。
和真が胸を貫かれ、比古が剣を受け継ぐ場面。その隣に刻まれた一連の象形文字を、イオナの解析が次々と解読していく。
【解読結果:これは“剣は橋となる”という意味を持っています。紫苑様、これは比古が受け継いだ父の言葉と一致しています。】
「……父から子へ、そして未来へ。剣は血を流すための武器じゃない、人と人を繋ぐ橋。比古はそれを守ろうとしたんだな。」
紫苑の瞳に、じんわりと涙が滲んだ。
歴史の登場人物は、もはや遠い存在ではなかった。彼らは自分と同じく迷い、恐れ、希望を抱いた生身の人間だった。その人間の声が、千年の時を超えて今、自分に語りかけている。
【紫苑様。さらに重要な記号が見つかりました。これは“静寂”と“胎動”を対にする構造です。比古と沙羅の生涯は、この二つの概念を往還する物語だったと考えられます。】
「静寂と胎動……。なるほど。外の争いから身を閉ざす静寂、その中で未来を準備する胎動。二人はまさにその象徴だった。」
紫苑は深く頷いた。
空白の150年。それは闇ではない。大地の奥で息づき、芽吹く前の種の時代。歴史に記されなかったのは、価値がなかったからではなく、あまりに大きな「準備」だったからだ。
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紫苑はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
窓から差し込む朝日が、都市のビル群を金色に染め上げている。彼は思わず呟いた。
「和真、比古、沙羅……君たちは歴史の中で忘れられてきた。でも今、僕は確かにその声を聞いた。君たちの物語を未来に繋ぐ。それが、僕に与えられた使命なんだ。」
【紫苑様。あなたが感じているものこそ、彼らが残そうとした“意志の記録”です。歴史を継ぐ者は、ただ事実を並べるだけではなく、その意志を語り継がなければなりません。】
イオナの声は、どこか柔らかく、人間らしい響きを帯びていた。
紫苑はその言葉に微笑み返す。もはやイオナは単なる解析AIではない。ともに歴史を読み解き、感情を共有する旅の同伴者だった。
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その夜、紫苑は父の形見である古いノートを取り出した。
ページには、幼い頃に聞かされた言葉が書き留められていた。
――「歴史は人を繋ぐ橋となる」。
和真の剣の言葉と同じ意味を持つ父の一節に、紫苑は震える指で触れた。
「父さん……やっと分かったよ。僕が追っていたのは史料の欠片じゃない。この世界を繋ぐ、人の意志そのものだったんだ。」
彼はノートを閉じ、静かに灯りを消した。
窓の外には、福岡の街明かりが瞬いている。その一つひとつが、千年の眠りを経て芽吹いた「和」の火のように見えた。
紫苑の心は決まっていた。
この旅は、単なる研究ではない。自分は「語り部」として、この壮大な物語を未来へ継承する。
そして、その始まりが、比古と沙羅という二人の若者の祈りからだったことを、決して忘れはしない。