表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/20

第八章 古代パート「盟約の絆」

~時を超えて~


宗像の都の門が、にわかに騒がしくなった。普段は厳重に閉ざされているはずの扉が、大きな音を立てて開く。長老の一人が血相を変えて比古のもとへ駆け寄ってきた。驚きと困惑、そしてかすかな恐怖がその顔に刻まれている。


「比古様……! 門の外に、新羅からの使者が……人質として、一人の少女を伴っております!」


新羅――和真が密かに交流を続けていた、北の国。和真の死を機に「静寂の盟約」を厳格に守ろうとする長老たちにとって、これは望まぬ波だ。だが、歴史は意志とは裏腹に、止まることなく動き出す。静寂を裂く微かな胎動が、門の隙間から確かに流れ込んでいた。


比古は剣を抱きしめ、ゆっくりと立ち上がる。胸の奥に、父の声が蘇った。


――境を越えることは、試練ではなく侵略になる。


今、目の前にいるのは侵略者ではない。助けを求める者たちだ。人質の少女を差し出すという選択の苦さに、比古は奥歯を噛み締めた。長老たちの決断と、父が遺した盟約のあいだで、胸がきしむ。

──────────────────────────────

広殿へ向かう回廊は重苦しい沈黙に支配されていた。長老たちは互いに顔を見合わせ、対処に迷っている。外の世界への不信は、和真の死以後、宗像の血と同じ濃さで脈打っていた。


門に近づくにつれ、聞き慣れぬ響きが耳に触れた。倭の言葉とはまったく異なる抑揚と息遣い。粗末な衣の男たちが数人、その中央に、一人の少女が立っている。土と埃にまみれた顔、しかし瞳は夜の星のように澄み、揺るがぬ光を宿す。二十に満たぬ若さであろう。背筋はまっすぐ、誇りを折られていない。


彼女の名は、沙羅。新羅の王族の血を引くという。


使者の男が比古の前に進み出て、異国の言葉で切迫した調子のまま訴え始めた。意味はすべてはつかめない。それでも、表情と身振り、断片的な固有名、武器や軍を示す手の形から、高句麗の圧と新羅内部の権闘が読み取れる。


比古は、少女を見た。そこに映っているのは恐怖だけではない。彼女は自らを人質として差し出された事実を噛み締め、それでも足を引かずに立っている。孤独と希望が同居した、冷たい炎のような瞳だ。


比古は剣の柄を握り直す。二つの流れ――盟約の静寂と、外からの胎動――が、彼の目の前で交錯した。

──────────────────────────────

新羅の使者と沙羅が宗像の浜に降り立ってから、数日が過ぎた。宗像は硬く口を閉ざし、外との交わりを避けようとする。海風は冷たい。砂は冬の湿りを含み、足裏の温度を奪う。


比古の胸中は荒海のように揺れていた。長老たちは「盟約を守るためには遮断こそが最善」と言う。だが比古は、父が密やかに続けた交流の一端を知っていた。焚火の夜、北の船人が見せた舟の接ぎ方。星の高さで潮を読む術。別れ際に手渡された、粗い布に縫い込まれた祈りの模様――それらは、確かに誰かと誰かが橋をかけた証だった。

──────────────────────────────

夜、比古は広殿脇の火のそばで長老に向き合った。炎は低く、灰の中に赤い芯が潜む。


「長老様。新羅との関わりを絶つことは、父上の望んだ『和』とは異なるのではありませんか。父上は剣を『橋』と呼びました。血を流すために抜くのではなく、心を繋ぐために掲げるのだと。」


長老は黙って薪を一本くべ、火が小さく爆ぜる音を聞いた。刻まれた皺の谷筋に、潮と戦の歳月が影を落とす。


「……比古よ。わしらは何度も外の風に晒され、子を海に沈めてきた。和真殿の志は尊い。だが現は血を要した。静寂は臆病ではない。守るための選びだ。わしらの背で受けた風は、もう骨に染みておる。」


比古はうなずいた。それでも口を閉ざさない。


「守るために閉ざすなら、開く勇気もまた守りではありませんか。目の前で溺れかけている者に背を向けることは、父の剣の教えに反します。」


長老の眼差しが、炎の奥で揺れた。和真の死を間近で見た者の悲しみが、海霧のように言葉の間に漂う。


「……ならば、示せ。言葉ではなく、志を。わしらの掟は軽くは動かぬ。」


「試練を賜りたい。」


短く静かに答えた比古の声は、火の芯に触れた鉄のように硬かった。

──────────────────────────────

翌暁、比古は浜に立った。潮は底冷えのする朝の匂い。空の一部が薄青くほどけ、夜の星が一つ二つ、名残りを留める。


比古は剣を抜き、刃先を砂へ向けた。敵意を収める倭の古い所作――「刃伏せ」の礼。次いで両の掌を潮に浸し、額に当てる。静かに息を整え、胸の奥で三度、父の言葉を反芻する。


――剣は人を繋ぐ橋となれ。

――迷わぬ心を持て。

――境は、守るために立てる。


長老は距離を置いて見守っていた。海鳥が低く鳴き、波が足首を洗う。比古は膝を折り、砂に指で線を引いた。寄せる波を二つに分けるように弧を描き、その中央に小さな楕円を刻む。弧と弧が触れ合うところに、短い点を打った。


「潮」「道」「会う」


倭の言葉を静かに口にしながら、比古は顔を上げた。沙羅が、護衛に囲まれながらも一歩だけ前に出る。彼女は茫とした朝の光を受け、比古の描いた線をじっと見つめると、砂の上に自らの指で細い傷を刻んだ。星の形にも、羅針の印にも見える、小さな交差。


その仕草は「遠い海から来た者の道標」を語っていた。言葉が通じずとも、概念は交わる。比古は深く頷く。


「……ホシ、シオ、フネ。」


以前、北の船人から学んだ僅かな語彙を、拙い舌でそっと置く。口の中で転がした「ホシ」は、冷たい夜空の遠い光を含み、「シオ」は砂を洗う音を連れてきて、「フネ」は父の背中と海の匂いを呼び戻す。


沙羅はそれぞれに自国の響きを重ね、同じ場所を指差した。音は違えど、指先が示すものは同じだ。二人の間に、細いが確かな橋が一本、音もなく架かる。


比古は悟る。剣が橋であるように、言葉もまた橋だ。どちらも、掲げるのは心だ。

──────────────────────────────

その日の夕刻、広殿。火の粉が舞い、海からの風が煙をゆっくり押し流す。長老は比古と沙羅を交互に見やり、硬い顔をほどくことなく口を開いた。


「比古。お前の礼と志は見た。だが、掟は掟だ。外の者と深入りは許さぬ。沙羅と名乗る娘は宗像の内で暮らす。外に出すことは禁ずる。護りは我らが担う。その上で……お前に任せる。責はすべて守人が負え。」


厳しい言葉の裏に、微かな諦念と、別種の信が滲んでいた。和真を友と呼んだ者たちの、引き裂かれた誇りの残響。比古は深く頭を垂れる。


「承知しました。すべて、私が負います。」


長老は一拍置き、低く続ける。


「明朝、禊を行え。潮に身を浸し、心の迷いを流せ。それが“門”に向き合う者の初めの掟だ。」

──────────────────────────────

以後、比古と沙羅の交流は、ことば少なに続いた。言語は壁だったが、壁に刻む印はいくらでもある。潮の引き際に、ふたりは砂に絵を描き合う。比古は宗像の海図を、稜線のような波を、星の順を。沙羅は遠い山と川の配置、鉄を打つ槌の形、敵軍の矢を示す鋭い三角。描かれた線が重なり、あるところでほどけ、また別のところで結び直される。


五感が言葉の代わりをした。潮風の匂いは、彼女の国の港にも同じように吹くのか。砂のひんやりした粒は、北の浜でも朝には同じ温度なのか。波の寄せる音、火の油の匂い、吐息の間隔――それらが、二人の間の余白を少しずつ埋めていく。


比古は、父の記憶を沙羅へ手渡すように語った。焚火のそばで和真が言った「剣は橋だ」という言葉。剣を抜かずに見せることで争いを遠ざけた夜のこと。沙羅は、自国の幼い王弟のこと、権を巡る影の争い、北の大国に押し込まれる国境線のことを、ゆっくりと絵と仕草で伝える。理解は瞬時には結ばれない。だが、結ばれたところから確かに温度が生まれた。


村人たちは最初、遠巻きに見ていた。やがて子どもたちが近づき、沙羅の口笛の旋律を真似し始める。異国の短い歌は、潮風に乗って浜を渡り、宗像の古い節回しと混じり合った。老いた海人がぽつりと漏らす。「昔、北の客人が吹いておった調べに似ておる」と。

──────────────────────────────

夜、比古は剣を膝に置き、静かに刃を拭った。鉄の冷たさが掌から骨へ、骨から胸へと移り、やがて熱に変わる。剣は橋――父の言葉は標のように胸に残り続ける。彼は思う。橋とは二つの岸あってこそ架かるのだと。一方で閉ざす静寂が必要な時もある。だが、静寂は永遠の終点ではない。いつか渡るための、風がやむのを待つ入り江だ。


沙羅の瞳の奥に、比古は自分と同じ孤独と希望を見た。彼女は一人で来たのではない。国の季節と血の重みを背に負い、ここに立っている。比古もまた同じだ。和真の遺志、台与の決意、宗像の静寂――それらすべての重みを抱えている。


だからこそ、二人の間に芽生えたものは、単なる情だけではない。父が遺した「盟約」の継承としての、運命的なパートナーシップの始まりだった。剣の文様に指先で触れるたび、比古は確信に近い予感を覚える。――この絆は、やがて橋を架ける、と。


満天の星がまたたく夜、波は規則正しく寄せ、遠くで火がひとつ消えた。静寂は深い。しかし、深さの底で、確かな胎動が続いている。比古は潮の冷たさを胸に吸い込み、明朝の禊に備えて目を閉じた。


彼の心に、父の声が再び澄んで届く。


――剣は、人を繋ぐ橋となれ。迷わぬ心を持て。


その言葉は、今や彼ひとりのものではない。沙羅と共有された、新しい「盟約の絆」そのものだった。


第八章 了

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ