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第八章 現代パート「空白の継承者」

紫苑は、長老に見守られながら、沖ノ島を望む海岸線で「禊」を行った。夜明け前の玄界灘は、深い藍色の残滓を湛え、潮風が凍てつく冷たさを肌に運んでくる。彼は、海水に膝まで浸し、ゆっくりと両腕を広げた。冷たい水が肌を洗い、過去の旅で心の奥底に澱んでいた迷いや、歴史の重圧が、少しずつ浄化されていくような感覚があった。


(歴史は文字だけでは測れない……父さんの言葉は、このことだったのか。)


彼がこれまで追い求めてきた歴史は、紙の上に記された断片的な事実の連なりに過ぎなかった。だが、和真の壁画、長老の言葉、そしてこの肌を刺すような潮の冷たさが、歴史を五感で感じ、心で読み解くことの重要性を教えてくれた。


「イオナ、準備はいいか?」

──────────────────────────────

紫苑は、沖ノ島を望む海岸線に立っていた。夜明け前の空は、まだ星が瞬き、水平線には淡い光の帯が広がり始めている。彼のスマートグラスには、壁画から解析された沖ノ島への「精神の航路図」が、青白い光で投影されている。それは、星の配置、潮の満ち引き、風の向き、そして特定の巨石の配列が複雑に絡み合った、立体的な光の網目だった。


【はい、紫苑様。現在、潮の拍、風向き、そして星の配置が、和真が記号に込めた『門の開放条件』と完全に一致しています。】


イオナの声は、微かに高揚しているように聞こえた。彼女もまた、この瞬間を待ちわびていたのだ。彼女にとって、紫苑の旅は単なるデータ収集ではなく、共に成長し、歴史の空白を埋めていく「共同作業」だった。


紫苑は、長老に教えられた通り、深呼吸を繰り返し、心を無にした。そして、壁画に描かれていた海人族の姿を模倣するように、ゆっくりと両腕を広げ、天を仰いだ。彼のスマートグラスに投影された光の網目が、一斉に輝きを増した。網目の交点が、まるで生きた脈動のように明滅し、沖ノ島へと続く光の道筋が、彼の視界に鮮やかに浮かび上がる。それは、物理的な道ではない。彼の意識が、千年の時を超え、沖ノ島へと繋がる「精神の門」を通り抜けた証だった。


──────────────────────────────

紫苑の意識は、肉体を離れ、光の粒子となって、沖ノ島へと吸い込まれていく。彼がたどり着いたのは、沖ノ島の北西部に位置する、ドローンで確認した岩屋の中だった。岩屋の内部は、外の光が届かず、深い闇に包まれている。しかし、紫苑の意識は、その闇の中を自由に漂うことができた。


岩屋の壁面には、宗像大社の岩屋で見た壁画と同じ構図の、さらに詳細な壁画が描かれていた。胸を貫かれた男(和真)が剣を握り、その足元に幼子(比古)が立つ。そして、その剣の先には、これまで見たことのない、緻密な文字が刻まれている。


【解析開始。これは……古代の文字です。これまで知られていなかった、倭国独自の記録体系…!】


イオナの声が震えた。機械的な解析音声に、感情の揺らぎが混ざり始めた。彼女は、膨大なデータを処理するAIでありながら、今、目の前にある「歴史の空白」が、単なるデータの欠損ではないことを悟り始めていた。それは、千年の時を超えた、誰かの願いの結晶だったのだ。


紫苑は、壁画に刻まれた象形文字を凝視した。魚の尾のように湾曲した線、鳥の羽を思わせる記号、そして星を象った点の連なり――それぞれが自然界の象徴でありながら、規則的な配置をとっていた。


「イオナ、この文字は……単なる装飾じゃない。潮、風、星、すべてを結びつける航海の記録にも見える。」


【はい、紫苑様。解析結果でも、これらの象は自然現象を指し示しています。例えば、波を表す記号の隣には『和』を示唆する二重線が描かれています。つまりこれは、自然の理と人の心を繋ぐ“契約”を文字化したものと推測されます。】


紫苑は息を呑んだ。壁画の文字は、単に時代を伝えるものではない。自然と人間、内と外、現在と未来を繋ぐ「橋」そのものだったのだ。


「父が言っていた“歴史は心で読むもの”……まさにこれだ。和真も、比古も、そして沙羅も、この橋を渡ろうとしたんだ。」


【紫苑様。もしこの象形文字が体系的に解読されれば、倭国が独自に生み出した“文字文明”の存在を証明できます。それは中国からの影響ではなく、この地の人々が未来を守るために築いた知の体系なのです。】


紫苑の胸に熱いものが込み上げた。これは単なる歴史の発見ではない。千年を超えて託された「声」なのだ。

──────────────────────────────

強大なる漢の国は衰え、やがて魏、晋へと移り変わる。だが、その力の流れは尽きず、新たな争いの種を北の大地にもたらすだろう。倭国は、この争いの渦に巻き込まれることを避けるため、自らを閉ざすことを選んだ。そして、この「千年の眠り」の間に、内に秘めた力を育み、来るべき未来に備えるのだ。


紫苑の胸に、激しい衝撃が走った。これまで歴史家たちが「空白」と呼んできた150年間は、台与と和真が、遠い未来を見据えて築いた、壮大な計画だったのだ。和真が目指した「和」は、血を流すことを避けるため、静かに、しかし確実に未来へと引き継がれていた。


【この記録には、比古が新羅から来た少女、沙羅と出会い、共に倭国の未来を護るための戦いに身を投じた経緯が記されています。そして…二人は、倭国の「千年の眠り」を守るために、自らの命を捧げたと…!】


イオナの声が、悲痛な響きを帯びて紫苑の意識に届く。その言葉は、単なる解析結果ではなかった。それは、千年の時を超えて、二人の愛と犠牲の物語を語りかける、魂の叫びだった。比古と沙羅は、和真が遺した盟約を護るために、自らの命を捧げたのだ。彼らの犠牲の上に、倭国の「空白の150年」は守られ、来るべき「倭の五王」の時代へと繋がっていった。

──────────────────────────────

紫苑の意識は、ゆっくりと岩屋の壁画から離れていった。彼は、肉体に戻り、再び沖ノ島を望む海岸線に立っていた。夜明けの光が、沖ノ島を鮮やかに照らし出している。その島は、もはや単なる聖域ではない。それは、和真、比古、そして沙羅が、未来へと繋いだ、希望の光を宿す場所だった。


「イオナ…比古と沙羅は、僕たちに、この真実を伝えたかったんだね。」


【はい、紫苑様。彼らの遺言は、歴史の空白を埋めることではありませんでした。彼らは、千年の時を超えて、この壮大な物語を、私たちに、そして未来に継承しようとしたのです。】


紫苑の瞳は、夜明けの光を宿していた。この旅の終着点は、単なる歴史の空白を埋めることではない。それは、紫苑自身が、比古と沙羅が命を賭して護った「盟約の絆」を継ぐ者として、未来へと続く新たな道を見据える、静かなる覚悟の瞬間だった。

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