第七章 現代パート「沖の門」
宗像大社の岩屋で和真の壁画を発見して以来、紫苑の心は、新たな真実への渇望で満たされていた。壁画が示す沖ノ島への「鍵」は、単なる物理的な航路を意味するものではない。それは、千年の時を超え、和真が未来に託した「精神の航路」だった。
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「イオナ、壁画の解析結果から、沖ノ島への最も確実な渡航方法を再検討してほしい。」
紫苑は、宿泊施設のデスクに広げた宗像の地図をじっと見つめながら言った。窓の外では、夜明け前の玄界灘が、重く鈍い光を放っている。カーテンの隙間から入り込む潮風は、かすかに海藻の匂いを運んできて、彼の思考を揺さぶった。
壁画に描かれた和真と比古の姿が脳裏から離れない。夜ごと夢に現れそうなその光景は、コーヒーの苦みすら塩辛く感じさせた。父の言葉を思い出す――「歴史は文字だけでは測れない」。今は、その言葉が彼の心臓を静かに締めつけていた。
【はい、紫苑様。沖ノ島は、現在も「神宿る島」として、厳格な入島規制が敷かれています。男性のみ、特定の儀式を経て上陸が許されますが、それも限られた関係者に限定されます。しかし、壁画の記号は、物理的な渡航方法だけでなく、古代の海人族が用いたとされる、特殊な『門の開き方』を示唆しています。】
イオナの声は、紫苑の思考を深く促した。壁画に刻まれた記号は、単なる星図や潮の満ち引きだけではない。それは、特定の場所、特定の時間、そして特定の「心持ち」が揃ったときにのみ開かれる、見えない「門」の存在を示唆していた。
「門の開き方…それは、古代の儀式のようなものか? みそぎや、祈り…。」
【可能性は高いです。壁画には、海人族が特定の巨石の前で、天を仰ぎ、両腕を広げる姿が描かれています。これは、自然との一体化を求める、一種の瞑想的な儀式であったと推測されます。】
紫苑は、目を閉じた。彼の脳裏には、和真の壁画に描かれた、胸を貫かれた男の姿と、幼い比古の姿が鮮明に蘇る。和真は、自らの命を賭して、この「門」を開こうとしたのではないか。そして、比古に、その「門」を護り、いつか再び開くための使命を託したのではないか。
「イオナ、宗像の海人族の末裔や、沖ノ島に関する秘匿された伝承について、何か情報はないか?」
【検索結果を投影します。宗像市には、今もなお、沖ノ島との深いつながりを持つとされる集落が存在します。彼らは、古くから『海守』と呼ばれ、沖ノ島の祭祀に関わってきました。】
紫苑の心臓が高鳴った。「海守」。それは、和真が遺した「盟約の証」を護り続けてきた、秘密の守護者たちかもしれない。
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集落へ向かう道は、海沿いの細い街道だった。道路脇には古びた石碑が立ち、潮風に削られた文字がかろうじて読める程度に残っている。やがて視界に入り組んだ湾が現れ、そこに寄り添うように家々が固まっていた。網が干され、漁船には油じみた匂いが漂い、波止場では猫が魚の骨を漁っていた。
外部の者を受け入れぬ視線が、紫苑を射抜いた。子どもが足を止めてじっとこちらを見つめ、大人は言葉少なに作業へ戻る。その沈黙が、この地が千年前から外界と隔絶してきた証のように思えた。
海守の一族は古来より沖ノ島を護り続けてきたが、その代償として他の民とは交わらず、外界から孤立してきたという。彼らには「海に縛られた者たち」という蔑称すらあったが、それでも一族は掟を曲げなかった。
「島のことは外に漏らすな。異なる血に語るな。」
その言葉は幾世代も受け継がれ、血よりも濃い戒めとして子らに叩き込まれてきた。
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紫苑が訪ねたときも、最初に現れた壮年の男は冷ややかな目を向けた。
「ここは観光客の来る場所ではない。帰りなさい。」
短い言葉に突き放すような硬さがあった。紫苑は怯まず、和真と比古の名を口にした。
「僕は…和真と比古の記録を追ってきました。壁画に刻まれた“門”のことを知っています。」
その瞬間、男の目がわずかに揺れた。だがすぐに顔を背け、低く吐き捨てる。
「外の者に語れることは何もない。我らは血の誓いを裏切ることはしない。」
そこへ長老が現れた。背を曲げ、深い皺に刻まれた顔は、長年の風雨にさらされた岩のようであった。彼は紫苑をじっと見つめ、長い沈黙の後、かすかに口を開いた。
「…和真、比古。その名をこの地で聞く日が来ようとは。」
長老の声には驚きと警戒が入り混じっていた。
「外の者に真実を明かすことは、我らの血を裏切ることと同じ。だが、おぬしがその名を知っているというのなら――それだけの覚悟があるのか、試さねばならぬ。」
紫苑は強く頷いた。彼の胸には、壁画を前にしたときと同じ確信があった。
「僕は、ただ知識を求めているのではありません。未来へ繋ぐために、この道を歩んでいます。」
長老の目に、一瞬だけ和らぎが宿った。だがその声はなお厳しい。
「よかろう。ただし聞くだけでは足りぬ。禊を経て、心の迷いを捨て去った者だけが“門”を開く。…その覚悟があるのなら、語ってやろう。」
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「沖ノ島には、古くから『神の門』があると言い伝えられている。その門は、特定の時期に、特定の者のみに開かれると…。」
長老の言葉は、紫苑の直感とイオナの解析を裏付けた。
「その門を開くためには、『魂の禊』が必要だと。それは、ただ身体を清めるだけではない。心の中の迷いや、過去のしがらみをすべて捨て去り、純粋な心で神と向き合うこと。それが、真の『門の開き方』だと教えられてきた。」
紫苑は深く息を吸った。父の声が再び胸の奥に蘇る。「歴史は心で読むものだ」。その言葉の重みを、今ようやく理解できる気がした。和真が残したものは、単なる証の隠し場所ではない。魂を整え、未来へ渡すための“儀式”そのものだったのだ。
【紫苑様。長老の言葉と、壁画の記号、そして和真が残したメッセージの全てが一致します。沖ノ島への『門』は、物理的な場所ではなく、紫苑様自身の内面と、古代の人々の心に存在するのです。】
イオナの声は、静かにしかし力強く紫苑を照らした。その響きは単なる解析ではなく、彼自身の鼓動に重なり合っていく。
紫苑は、長老に深々と頭を下げ、集落を後にした。振り返ると、海辺に干された網が朝日を受けて輝いていた。玄界灘は白銀の光をまとい、波の一つひとつがまるで「門」の輪郭を描いているかのように見えた。
沖ノ島への「門」は、外界のどこかにあるのではない。紫苑の心の中に、静かに、そして確かに開かれようとしていた。