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海楼国家インキュリア。
その実態は人身御供によって成立した、『帝国』の一部の人間にのみ提供されていた秘密の楽園である。
水の精霊序列二位。
その加護である『進化』は、支配下にある空間の時間を加速させ、本来なら数万年かかる生命の変化を強引に進めること。
そしてそれは、逆の使い方もできた。
例えば、支配下にある空間の時間を減速させることで、疑似的に寿命を延長すること。
いわゆる不老不死を、『進化』の加護の元でのみ成立させる。
それが、かの精霊から与えられる誓約『停滞』。
本来ならデメリットでしかないそれを、敢えて利用しようと思うのは人の性か。
あるいは、そうすることを思いつき指示した人間がいたか。
どちらにしても、クレアという少女はその犠牲になったのだ。
大勢の大人たちの私利私欲に巻き込まれる形で。
何一つ手に入らないという、最悪の結果だけを手元に残す形で。
「『───────来るぞ』」
「分かってる!!」
ロアの警告のあと、脅威がサレンに襲い掛かる。
姿を見せたのは巨大なウツボに似た生命体。
大きく開かれた顎はサレンを丸呑みにできるほど大きく、その体躯は推定で十メートルを優に超えるほど。
それが何もない、潮流に見えるパンサラサの魔力から姿を見せる。
(詠唱無しの召喚魔法とか、流石に同格なだけあるってところかな!!)
しかし、サレンは怯まない。
ウツボに似た生命体の牙が体に触れるより先に、サレンは一気に前へと踏み込んだ。
「っ、遠っ!?」
距離にして、恐らく五十メートルくらいか。
歩いて近づいたというのに、いつの間にか離れていることに気が付きサレンは笑う。
「逃がすか、っての!」
それは獲物を前にした獣のような、鋭利で獰猛な破顔。
爛々と輝く瞳は白い光を帯び、駆け抜ける様は空に描く飛行機雲のよう。
「ラぁ!」
放たれた一撃は、右の拳による正拳突きだった。
構えは空手のようで、狙いはクレアの胴体。
オーソドックスな一撃は、ロアの魔力を纏うことで空間を抉るほどの威力へと変化する。
「っ!?防がれた!?」
「『驚く暇はないぞ』」
「分かってるって!」
再び、ロアの警告。
サレンは適当に返事をしつつ、自身の攻撃が防がれた要因を睨み呟く。
「タコ…………?いや、確か本物のタコは体が柔らかかったはず。でも、殴った手ごたえは岩みたいに硬かった…………」
「『合成魔獣の一種と捉えれば理解は早いはずだ。つまりは、複数の生命体の性質を組み合わせている』」
「…………流石は精霊。動物科の人が知ったら大喜びしそうね」
言葉を交わす間も、サレンに襲い掛かる生命体が途絶えることはなかった。
例えば、サーベルタイガーのような牙を持つ魚。
例えば、ロケットのように猛烈な推進力を持つ蟹。
例えば、返しのある触手を脚に絡ませてくる貝。
鮮やかな体色に規則性はなく、濃い青色の空間においてそれらは見事なまでに極彩色を放っている。
そして漏れなく、その生命体はクレアへ迫る隙を与えてはくれなかった。
(…………気のせいだって思いたかったけど、さっきから距離を遠ざけられてる)
接近どころか、現状維持すらままならない状況。
無限に思える大群の猛攻は、ロアの魔力を全開で振り回しても間に合わないほどの質量を誇っていた。
加えて、攻撃手段の性質の違いもある。
クレアは無数にいる生命体を使役するため距離を選ばないが、サレンは徒手空拳を主体とするため近づかないといけない。
掻い潜ろうにも遮蔽物になるものはなく、開けた空間はクレアの力を最大限に引き出すために設計されているようだった。
(実際、そのためなんでしょうけどね。結界魔法だって元々は自分に有利な環境を生み出すって理念から始まってるわけだし、精霊使いが同じことをできてもおかしくないわけで)
そんな敵地のど真ん中で思考の余地があるのもまた、精霊の魔力を全身から絶え間なく溢れさせているから。
蛇口の栓を開けっぱなしにして水溜まりを作るような、継続させることで自身の領域を暫定的に生み出す手法。
普段のサレンなら一秒も保てない方法だが、生憎とロアの魔力『脈動』は地面から恒久的に魔力を吸い上げることができるもの。
こと瞬間火力では些か見劣りするが、こういった持久戦においては無類の強さを誇る代物だ。
(オレがまだ無事なのは、向こうが場当たり的な攻撃しかしてこないから。ぶっちゃけ、搦手に嵌められたら挽回なんて絶対に無理だし)
なにより、ぶつかり合う魔力量の桁が違いすぎて、サレンは軽く正気を失いかけていた。
動転というよりも、一種の興奮状態と言うべきか。
自らと関係ない魔力の衝突は、今まで感じたことのない気分をサレンへと与え続けている。
「あぁもう!これキリがなさすぎるでしょ!!」
サレンは叫ぶが、クレアは何も言わない。
いつの間にか纏う衣服は変化し、今は随分と可愛らしい恰好へと身を包んでいる。
「『恐らくは、あれがパンサラサの神霊外装なのだろうな。随分と趣味が悪い』」
「悪い?あれが?」
「『隆々とした体形をしておいて、よもや契約者を可愛く着飾ろうと思う精神性が気に食わんだけだ』」
「それ言ったらロアの神霊外装も大概じゃない?他に人がいないから平気なだけで、オレまだ普通に恥ずかしいからね?脚めっちゃ露出してるし」
喋る余裕があるのは、状況が好転しているからではない。
むしろ、その逆。
クレアにとって脅威に思えないほどに遠ざけられ、近づく契機を見失っているからだった。
「ロア!なんかアイデアない?というか助けて!!」
「『小生は十分に力を貸してるが…………?』」
「んなのオレだって分かってるっての!これはただの弱音だから真面目に答えないで!!」
「『…………難しい話であるな』」
現状だけを見れば、圧倒的にクレアのほうが優勢だった。
恐らく『置換』とやらを行ったおかげか、クレアは精霊の力を十二分に引き出しているのに対し。
サレンは未だ、仮契約のままのせいでイマイチ全力を出せずにいる。
(引っかかってるっていうか、見えない一線に邪魔されてるっていうか…………上手く言えないけど、このままじゃ超えられないってのだけは確信できるのが答えなのよね…………)
その一線が、『置換』の有無の差なのだろう。
必然的に、サレンも今ここでロアと本契約をすべきかと考えるが。
(ロアが妙に消極的なのは、きっと『誓約』に理由があるんでしょうけど。具体的な中身を聞かされていない今の状態で、無理やり契約するのも気が引けるし…………)
敢えて言わないのだから、相応の理由があるはずだ。
サレンはそう考えるからこそ提案できず、徐々に戦局は劣勢から拮抗へと変化していく。
「『ジリ貧だな。小生らは近づけんが、向こうも盟友を無力化できる手段を有していない』」
ロアの感想にサレンは一つ頷き、そしてこう考えた。
(この距離で言い合ってもクレアを改心させられる気がしないし。というより聞く理由が向こうにないしね。できるなら一度ぶん殴って正気に戻そうと思ったけど、今のままだと永遠に現状維持を繰り返すだけ)
サレンに打てる手はなく、クレアは手を打つ必要性がない。
向こうはサレンがいなくなれば全てが解決で、遠ざけられた今それは順調だと言えるだろう。
だから、サレンは賭けるしかなかった。
ここに来るまでに思いついた、精霊たちですら思いつかないだろう秘策を。
「───────仕方ない」
「『…………?』」
「ねぇ!そこのパンサラサって精霊!!」
呼ばれたことに驚いたのか。
あるいは、戦いの最中に呼ぶサレンに驚いたのか。
パンサラサは姿を晒すと、不気味そうな視線でサレンを見つめる。
そしてサレンは、大きな声でこう提案した。
「アンタさ、私とも契約しない?」




