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────────初めて父から言われたことは、同情を禁じるものだった。
「決してアレを人と思うな」
厳格な父。
食器の持ち方から、基本的な挨拶まで。
父は一族に伝わる規則で己を律し、それを自分にも求めてくる人だった。
「いいか。我らが一族の目的は国家の安寧と繁栄。そして、アレはそのための装置でしかない」
父は完璧だった。
完璧すぎるあまり、自分は父が苦手だった。
粗相をしたことも。
所持品を失くしたことも。
あるいは、ほんの些細なことでさえ。
父は見逃さず、父は許さず、父は指摘し、父は求めてきた。
正しさの権化。
優しい母はそんな父に従うだけで、父の方針に口出しはしなかった。
「アレは気紛れな怪物だ。少しでもつけ入る隙を与えれば、そこから一気に呑み込まれる」
正解の奴隷。
厳格の現身。
周囲の者たちは父をそう呼び、自分もまた内心でそう思い。
自由を求める少年心は、必然的に父を嫌った。
「慣れ合うな。飼い慣らせ。人の姿を真似するのは、こちらを油断させ取り入るための手段に過ぎないのだ」
だけど、父はどうしようもなく完璧だったのだ。
嫌悪感を抱きながらも、それ以上の敬意を抱いてしまうほど。
まるで己を罰するかのように。
どこまでも真っすぐな父が、自分にとっては格好良く見えたのだ。
「…………分かりました。父上」
だから、自分は父を倣った。
父のように。
父上の期待を裏切らないように。
偉大なる父上に失望されないように。
そんな、盲目的な信仰は、やがては自分を高みへと導いてくれた。
同年代の誰もが羨むほどの知識と技術を会得し。
多くの大人が慄くほどの器量と才覚を自分は手に入れた。
「いつの日か、父上のようになってみせる」
足りない。
余りにも、自分は足りていない。
どこまでも愚直な精神はやがて、とある契機を迎える呼び水となる。
「ついてこい」
その日のことを、自分は今でも覚えている。
何気ない日。
いつもよりも少しだけ緩やかな潮流だと思いつつ、自分は父に呼ばれ背中を追った。
「今日から、お前には重要な役目を任せる」
「…………え?」
いきなりのことで、自分はそう尋ね返す。
すると父は苦しい顔をしながらも、それでも自分から目線を外すことはしなかった。
「まだ、早いとは思うが。それが向こうの意向である以上、我々は従うだけなのだ」
「…………父上は、困っているのですか?」
今にして思えば、なんて命知らずな問いだろうか。
父は大きく目を見開き、そして優しく笑った。
「そんなことはない。少し驚いたが、お前ならばと私が判断した」
やや力強く頭を撫でられ、乱れた髪型を整えてから父は手を離す。
「だが、この役目に違和感を覚えたのなら。その時はすぐに私に伝えなさい。それができないのであれば、今回の話はなかったことにする」
「…………分かりました」
父は、怯えていた。
どうしてなのか、何に対してなのか。
それが何なのかは今でも分からないままだったが、それでも父は怯えていた。
「よし。なら、ついてこい。向こうもお前を待っている」
そして、再び無言へ。
長い長い。
音さえ遠くにあると錯覚するほど静かな廊下を歩いた先。
明らかに周囲とは意匠が異なる扉の前で、父は足を止めた。
「この先に、お前を招いた人がいる」
言葉の意味が違う。
幼いながら、それは自分にも理解できた。
「行ってまいります」
「…………あぁ」
手を掛けた扉は軽く、押せば容易く開くのは分かった。
だから、自分は両肩に感じる違和感を無視し、その扉を力強く押した。
今なら分かる。
その違和感は、無視してはいけない代物だったと。
そして、自分はすぐに知る。
父が語る、アレと呼ぶ何かの正体を。
それが運命の分かれ道だと、理解するには幼過ぎた、と。
───────。
───────。
───────。
誰かが言った。
それは幸福なことだって。
誰かが言った。
それは名誉なことだって。
だから、わたしは嬉しく思った。
だってこれで、パパとママを幸せにできるって。
選ばれることで、パパとママが喜ぶって。
だから、我慢したの。
嫌だって思ったし。
怖いなって思ったよ。
でも、でもね。
逃げ出したらダメなんだって。
ワガママを言ったら、パパとママが困るからって。
だから、わたしが頑張ったんたの。
うんとたくさん、びっくりするくらい。
だけど、それだけじゃ足りないんだって。
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと。
びっくりするくらい終わりがなくて。
だから、わたし聞いたんだ。
「いつになったら、終わるのかな」
そしたら、お兄さんはこう言ったんだ。
「いつかきっと。必ず終わります」
わたし、知ってるんだ。
みんな、嘘をついてるの。
みんながみんな、自分のために嘘をついてるって。
だからもう、いいよね?
わたし、たくさんがんばったし。
色んなこと、いっぱい我慢したし。
我慢して、我慢して、我慢して、我慢して、我慢して、我慢して。
そしたら、おかしいなって気づいたんだ。
「我が伝えたとおりだろうて」
誰も、わたしを見ていない。
一人だって私を名前で呼んでくれない。
ここから、どこにもいけない。
「ここに、そちを求める者はおらんぞ、と」
ねぇ、教えてよ。
わたし、がんばってるよ。
いっぱい我慢して、それでもがんばってるんだよ。
「諦めい。どれだけ呼ぼうと、応じる者はおらんて」
ねぇ、お兄さん。
なんで、わたしの名前を呼ばないの。
パパとママに会わせてよ。
よくやったって、わたしを褒めてよ。
「それが、そちに課せられた『誓約』よ」
ねぇ、聞いてよ。
わたし、ここにいるよ。
ずっとずっと、ここにいるから。
だから。
どこにもいけないわたしから、あなたも逃げないで。




