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全速力で走るサレンに対し、ロアは並走しつつこう尋ねた。
「『大丈夫なのか?』」
「逆だから」
迷いのない答え。
その躊躇のなさとは裏腹に、ロアには言っている意味が理解できなかった。
「この状況、危ないのは私たちってこと。今更だけど、学校全体が異様なほどに静かなの。まるで私たち以外誰もいないみたい」
「『…………時間停止の法、か』」
「ぶっちゃけ、私よりシルフィの方が圧倒的に強い。というか比較にならないくらいよ。ロアがどう思ってるのかは知らないけど、心配するなら私の方をしてほしい」
「『それほどの実力者か』」
問いに対し、サレンは断言する。
「あの子の魔法は『薔薇』。それも世にも珍しい『原典』の一つ。万が一もあり得ないわ」
原典。
それは一般の魔法とは異なる、選ばれた者にしか扱えない力。
魔法とは、世界に存在する法則である。
故に多くの魔法は、事象という形で整頓され、学問として体系化されてきた。
だが、この『原典』は違う。
「『原典』は選ばれた人間、それも血脈を通した末裔しか継承できない魔法。この国が血統主義なのは、この『原典』が一子相伝の門外不出だからなのが大きいの」
シルフィの生家、アルクメネ家。
この家に代々伝わる『原典』こそ、『薔薇』の魔法。
サレンなど大勢が扱う魔法とは根本的に一線を画す事象であり。
少なくとも、サレンから見たそれは余りにも現実離れしているものだった。
「だから、シルフィは平気。むしろシルフィが助けに来れない今の状況の方が遥かにヤバイわ」
「『…………理解した』」
納得した様子のロアは、駆けながら後ろを見て思う。
(…………道理で、小生に近いわけだ)
その視線の先。
シルフィは静かに、『天使』と呼ばれる怪物と対峙していた。
(まさかこのような状況になるなんて…………念のため、探知魔法の類も発動させていますが…………)
結界魔法の応用系として、定めた領域に物体が触れたことを知らせる魔法が存在する。
元々は自己の領域を他者に示すため、不用意な接近を互いに避けるために用いられるものなのだが。
(それらを使っても反応をまるで示さない…………この『天使』、本当に生きているのでしょうか?)
得体が知れなら過ぎることに怯えが垣間見えたが、シルフィは自覚的にそれを握りつぶした。
「…………とにかく。ここは私が戦わなければ」
全身に魔力を。
そして掌に、球体を描くように一点に集約。
「『薔薇よ、咲け』」
現れるのは無数の棘が生えた蔓。
シルフィの体よりも二回り太いそれらは、さながら大蛇のように唸りを上げて『天使』へと襲い掛かる。
「♪───────」
切断。
文字通り一瞬でサイロ状に切断されたそれを前にしながらも、シルフィは怯むことなく次の行動に移っていた。
「『天蓋より来たりし楽園は、慈愛を秘め地に満ちほこる』」
詠唱。
激しく流れる魔力に慌てることなく、糸を編むように奇跡を織り為す。
「『蕾はここに。鳥は羽ばたき。風は吹いた。それは報せと為りて野原を駆け、世界はここに純美を知る』」
立ち込めるは、香しい花の匂い。
優雅で気品あるそれは明確な魔力の残柄として広がり、崩れかけた宿舎にさえ作用した。
「『───────誇れ、赤薔薇』!」
深紅に似た混じり気のない赤の花。
それらがシルフィの周囲に咲いた途端、一陣の風が花びらを攫い吹雪となってシルフィの姿を覆い尽くす。
風に攫われた無数の花びらは弧を描き、やがて『天使』までも呑み込む球体へと変化した。
(…………ロアさまが言っていた核。その位置は今の私では分かりませんが、全体を端から細切れにすれば取りこぼしはないでしょう!)
高次元の魔法行使。
いつの間にかシルフィの体には、薔薇を連想させるような赤く光る紋様が浮き出ている。
それは主に右手の甲から始まり、腕を巡って顔面まで到達し。
その緋色の瞳に、光る朱が混じり輝く。
「…………ッ!!」
走る激痛。
大規模な魔法は、優れた素養を持つシルフィとて容赦なく対価を要求する。
例えるなら、剥き出しの神経に針が刺さるような痛み。
それに顔を顰めながらも、シルフィは確かな手ごたえと共に魔法を解かずにいた。
(…………大丈夫。『天使』は動いていない。このまま、この魔法で圧殺すれば倒しきれる)
いつの間にか、シルフィが立つ周囲には第二陣となる薔薇の花園が姿を見せていた。
シルフィの行使する『薔薇』の魔法。
それは対象を攻撃する花弁を生み出すだけでなく、周囲一帯を己の領域へと変貌させる魔法である。
この魔法の利点は、起点がシルフィであること。
吹き荒れる花弁は攻撃ではなく、むしろ防御の面において秀でている代物だ。
加えて地中から生える荊の蔓は、生半可な防御魔法を容易に貫くことができる。
同時に、この魔法には致命的な欠点があった。
それは魔法を行使する際、周囲に多大なる影響を与えてしまうということ。
この魔法は『薔薇』を咲かせる、という一点において特化している。
場所を問わず、時間に縛られず、シルフィが望めば海水の中ですら『薔薇』を咲かせることができるのだ。
だから、この魔法の強制力は脆い人体を容易に貫く毒にもなる。
それ故に、シルフィは今日まで一度たりとも、生まれた家ですら全力を振るったことがなかった。
(…………まだ、まだよ。このぐらいでは、あの『天使』とやらは倒せn)
だから、ロアは懸念したのだ。
全てにおいて恵まれてきたシルフィが、互角以上の敵と対峙する。
その経験の少なさから生じる、油断を。
「……………………ぇ?」
揺れる視線。
何かに足を滑らせたのかと視線を足元に向けると、その手前に何かがあることに気が付いた。
「……………………っ、、ぇ?」
それは、『天使』が放った布状の触手だった。
触手は無数に吹き荒れる『薔薇』を貫き、そしてシルフィの腹部をも貫いていた。
「……………………ぁ」
気が付いてしまえば、後は何もかもが手遅れだった。
震える全身は現実を受け入れられず、行使していた魔法は維持できず崩れる。
精密な魔力操作は、安定した精神があって成立する。
だから、腹を穿たれた時点で雌雄は決していたのだ。
「……………………」
口から吐血し、両腕から力が抜け。
触手が引き抜かれたあと、その体はゆっくりと前へと倒れる。
「シルフィっっっ!!」
しかし、その体が地面に叩きつけられはしなかった。
「、このっ!」
よく知る声。
薄れゆく意識のなか、シルフィは確かにこう聞いたのだ。
「大丈夫。あとは、私に任せて」
「…………ぇ」
ダメ。
逃げて。
貴女では。
サレンちゃんでは、戦えない。
絶対に勝てない。
だから、私を置いて。
一人、全速力でここから逃げて。
「…………っは、ゴホっ、ゲホッ!?」
だが、シルフィの想いは声にならない。
せり上がる血の味が口に充満し、鼻腔を覆い視界を歪める。
だというのに、サレンはそっとシルフィの手を握って言った。
「ありがと。でも、それはできない」
サレンは笑い、そっとシルフィの体を地面に寝かせた。
「ここで逃げるような奴が、大切な親友を見捨てる奴が。どのツラ下げて生きてりゃいいんだって話なわけ」
そして。
サレンは高らかに、盟友たる名を呼んだ。
「行くよ、ロア。その力、ぜんぶ私に貸しなさい」




