第98話 加速する支配計画
封律議会が到着し、上席査定官ヴェスタンによって「理外汚染源」と名指しされた直後、村の空気は完全に凍りついていた。
だがその騒ぎの最中、村の裏通りにある倉庫の一室では、別種の緊迫感が漂っていた。
「今だ。封印が始まる前に"中枢ID"を奪う」
カリムは地図の上に指を落とし、村中央より少し北に印をつけた。
「奴らが封印陣を展開し始めたら、この村は外への道も閉じる。封律議会が結界の"出入り端子"を押さえた後では遅い。その前に、魂柱の中枢権限を掌握すれば……この村の住人すら我々の所有物になる」
傭兵上がりの男たちが扉の近くで頷き、武装を整えた。
帳簿係に扮した男が、緊張した声で言う。
「ですが、昨夜からエルナとあの旅人――ミロシュが、供物台の結界を直して回っているという噂が。あれが計画の邪魔になる可能性が」
「無視して構わん」
カリムは淡々と断じた。
「結界の構造を本当に理解しているのはイルセだ。エルナが何をしようと、それで村が一、二日延命するだけだ」
念のため、と彼は短く付け加える。
「ミロシュとエルナの動きも追わせろ。監視は二重に。何かを壊しているだけなら問題はない。ただ、イルセに接触するようなら消す」
数人の影が無言で頷き、倉庫から離れていく。
カリムは地図を折りたたみ、上着を整えながら最後に部下へ言い放った。
「封律議会が封印に専念するほど、我々の自由度は増す。今この瞬間からが本番だ。村全体を"拠点"に変える準備を進めろ」
彼の目は静かに、しかし燃えるように光っていた。
それは、破滅の中にだけ"自由"を夢見る者の目だった。
*
村全体が重い沈黙に包まれていた。
家々の戸が閉ざされ、広場には誰の姿もない。
畑の隅の小屋では、老人が震える声で祈りの言葉を繰り返していた。
その静寂を縫うように、黒い服の一団が家々を回り始めた。
旅人に偽装した男たち、穏やかな笑顔を貼りつけた商人たち。
彼らは戸口に食料の包みや薬の小瓶を差し出し、こう囁いた。
「こんな時、頼れるのは俺たちだよ。王都の連中は助けてくれやしない」
「食料? 構わない。困ったときは互いに助け合うのが"同じ側の人間"ってもんだろう?」
最初は誰も受け取らなかった。
だが子どもを抱えた若い母親が、震えながらもその小瓶を両手で受け取った瞬間、堤防に小さな亀裂が入った。
男たちは笑顔のまま言葉を重ねる。
「黒封隊が封印して村を閉じたら、中にいる連中は"見捨てられた人間"になる。でも俺たちと一緒なら……食べ物も安全も、ちゃんと手に入る」
その言葉に、若い男たちの数人が目を伏せたまま頷きかけた。
畑を守ることしか知らず、戦いの術も持たない彼らにとって、封印よりも"誰に守られるか"の方が現実的だった。
カリム本人は姿を見せていない。
しかし配下の者たちは手際よく役割を分担し、村の不安を吸い上げていった。
「なぁ……封律より、あいつらの方がまだ味方っぽいよな……」
そんな囁きが、村の片隅でじわじわと広がっていく。
"支配"とは強制ではなく、人心を掌握するところから始まる。
その基本を、カリム一派はよく心得ていた。
夕暮れが迫る頃には、物陰で小さく頷く若者が三人。
薬を握りしめた子連れの母親が一人。
"もし彼らについていけば……"と迷い始めた眼差しが、あちこちに生まれていた。
静かな侵食は、すでに始まっていた。




