第92話 愛した者たち
焚き火の炎が小さく揺れ、夜の気配が谷間を満たしていく。
長い沈黙の後、セラフがゆっくりと口を開いた。
「……セファ、おまえも感じているはずだ」
低く抑えた声には、静かな熱が宿っていた。
「封律議会はこれまで、理から外れた芽を摘み取ってきた。これからも摘み取り続けるだろう。確かに、そこには危険なものもある。破滅を招く可能性も否定できない」
炎の光が、セラフの瞳の奥でちらりと反射する。
「だが――その中には、現在の価値観では測り知れない発想や、まったく新しい技術の芽もあるはずだ。それらは世界をより良く変える可能性を秘めている」
セファは視線を落とし、火にくべられた枝がぱちりと音を立てるのを見つめる。
セラフの言葉は、議会で染みついた「正義」の概念を崩すように胸の奥へと浸透していく。
「奴らはその可能性すらも摘み取っている。私はそれが許せなかった。だから――逃げた。そして今、この谷に"環"を創ろうとしているんだ」
「環……?」
セファが顔を上げると、セラフは焚き火越しにかすかな笑みを浮かべた。
「互いの違いを拒絶せず、つなぎ合わせ、循環させる場所。理から外れた者も、既存の理に従う者も等しく語り合える環。ここから、世界の新しい形を探していく」
夜風が谷を渡り、炎が細く揺れる。
その揺らめく光を見つめながら、セファは心の奥で、自分がすでにその「環」の中に足を踏み入れ始めていることを悟った。
突然、森の奥を裂くように警鐘の音が響いた。
霧に包まれた夜の空気の中、複数の術式光が木々の間で瞬く。
封律議会の追跡部隊が到着したのだ。
「全員、北側の転移路へ!」
セファは低く叫び、拠点の仲間たちを背後へ送り出した。
異国の術師が古式の符を結び、元封律術師が結界を重ねる。
理外の村人たちも荷を背負い、慌ただしく森を駆け抜けていく。
その背を守るように、セファは小道の中央に立ちふさがった。
草の露を踏みしめる足音が近づき、やがて白衣の列が木陰から姿を現す。
その先頭に立つのは、重衣を纏った上位術師――王都で何度も顔を合わせた男だった。
「セファ」
その声は、かつてと変わらぬ冷徹な響きだった。
「おまえは間違っている。正義は芽を摘むことで未来を守るのだ」
森に漂う霧が、彼らの術式灯に照らされて白く揺れる。
セファは短く息を吐き、胸の奥で燃え立つ感情を押し殺すように視線を合わせた。
――芽を摘むことが正義ではない。
――芽を育て、悪意だけを摘むことこそが正義だ。
その確信は、議会の教義を深く信じていた頃には想像もできなかったほど、はっきりと形を持っていた。
背後では、仲間たちの足音が徐々に遠ざかっていく。
「ならば……おまえたちは、俺がここで止める」
静かな宣言とともに、セファの足元で魔方陣が広がった。
それは防御と拘束を重ねた術式——森に咲く一輪の壁となるための覚悟だった。
白衣の影が迫り、夜の森は一瞬にして閃光と衝撃音に包まれた。
セファは振り返り、遠ざかる仲間たちの背を目に焼き付けた。
その向こうには、異国の術師も、理から外れた村人も――誰一人欠けさせるわけにはいかない。
「ここは俺が抑える。行け!」
迫り来る封律議会の追跡部隊。
前列の上位術師が、冷徹な声で告げる。
「セファ、まだ間に合う。戻れ。正義は芽を摘むことで未来を守るのだ」
セファは剣先を下げず、静かに首を振った。
「芽を摘むことが正義じゃない。芽を育て、悪意だけを摘む――それが、俺の信じる正義だ」
言葉と同時に地面が震え、足元から広がった魔方陣が複数の鎖を放つ。
鎖は前衛の白衣たちを絡め取り、瞬く間に拘束の陣へと変わる。
「……っ!」
上位術師の目がわずかに見開かれ、周囲の術士たちが次々と防御結界を展開する。
セファはその隙を突き、斬撃と閃光を重ねて放った。
その剣閃は敵の隊列を裂き、数名を行動不能に追い込む。
――だが、その時だった。
背後の木陰から、かすかな靴音。
気配を探る暇もなく、鋭い痛みが背中に突き立った。
「……っ!」
胸の奥まで貫かれる冷たい感触。
血が喉を逆流し、視界が一瞬で白く霞む。
耳元で、知らぬ声が低く囁いた。
「善戦だったよ、セファ」
遅れて気づく――最初から、別動の刺客が潜んでいたのだ。
彼の体が前のめりに崩れ、地面の露が冷たく頬を打つ。
上位術師は淡々と、しかしどこか勝ち誇ったように言った。
「もう助かるまい。……引くぞ」
白衣の列が音もなく森の奥へと消えていく。
残されたのは、血の匂いと、遠ざかる仲間たちの足音だけだった。
胸を貫く衝撃とともに、肺から血が溢れる。
セファは地面に崩れ落ち、赤黒い血が口端から滴った。
視界は霞み、森のざわめきさえ遠くなる。
もうろうとする意識の底で、彼の唇は、ただ一つの響きを求めた。
「……ミオ……ル、ネァ……」
それは、愛した者たちの名。
けれど、吐息とともに零れた音は途切れ途切れで、血の泡が小さく弾けるたび、かすれて歪む。
「……ミ……オル、シェァ……」
その濁った声は、もはや本来の形を留めてはいなかった。




