第87話 選び取る者
――《叡智の環》第三環構造・会議室
灰銀の壁に囲まれた静謐な空間。
天井も床も曖昧で、まるで透明な幾何学体の内部に浮かんでいるかのようだった。
無数の情報投影が空中を漂い、交差し、分裂し、やがて再び融合していく。
その中枢に――一つの存在が浮かんでいた。
それは球体だった。
直径約1.3メートル。
鏡面のように滑らかな外殻には、幾何学的な光が走っている。
機械でもなく、生物でもない。
知性そのものが物質化したような異様な存在
《SARIFA/サリファ》
球体の表面には、時折"思考"を意味する演算光輪が現れては消えていく。
そのたびに、空間が静かに脈動した。
「――観測者"ミロシュ・レーン"より最終データ到達。解析完了率87.2%。誤差、許容内にて報告可能」
発せられた声は金属質で機械的だった。
だが、どこかに意志のような"重み"が感じられた。
「主要断片より報告を抽出。再生」
瞬間、空間に幻灯のような映像が浮かび上がる。
それは夜の村――
誰もいないはずの小道を歩くアマギ・コウヤの後ろ姿。
その背を、暗がりからじっと見つめるミロシュの姿。
そして、ミロシュが記録していた思考音声が、場に流れ始めた。
「魂振動、既存のスキル体系と照合不能。想定以上に、既知の"逸脱者"たちと酷似している。……否、それ以上だ。彼の存在自体が、理に対する干渉を"起点"として成立しているように見える。彼がスキルを持たぬ理由――それは、世界が彼を拒絶したのではない。彼が、世界を拒絶しているのだ」
映像が消える。
サリファの演算核がかすかに回転音を発し、淡い光を放った。
「以上、観測者"ミロシュ・レーン"による観測記録より抽出された核心仮説。加えて、当機体による補足解析を開始する」
球体の表面に、虚空を切り裂くように文字列が浮かび上がる。
【仮説:アマギ・コウヤ=定義外構造体】
"スキル無保有"は結果であり、構造的起点である。
外部からの強制干渉(召喚)に対し、魂の自律構造が即座に"再定義を拒絶"した。
結果、召喚者としての"所属"タグが付与されなかった。
「我々が"規格外"と分類する範囲には収まらない。彼はただの逸脱ではない。……"根本的な別物"なのだ」
沈黙の中、灰銀の椅子が軋んだ。
そこにいたのは、叡智の環・第六座、《解析神書》を担う重鎮――セラフ=ハーデン。
老いた錬金師を思わせる風貌の男は、光の端末越しに鋭い視線を送る。
「理の内側にいない。だからこそ、理を揺るがす可能性がある……ということか」
「まさか」
同席していた男、カムロが腕を組んだ。
「彼一人が、世界に対して反証を突きつけるとでも?」
「可能性はある」
再び、金属の知性が言葉を紡ぎ出す。
「彼は"この世界に沿って存在していない"だけでなく、"自身の魂を保ったまま異界を通過している"。これは理論上、不可能なはずだった」
セラフが目を細め、低く呟いた。
「つまり、彼は"世界の書き換えに耐えた存在"……すなわち、"すでに書き換えられていた側"ではないか?」
「……!」
「仮に、彼の魂がすでに完成されていたとすれば、どんなスキル、どんな理の注入も"余白がない"がゆえに反発する。ならば、彼が何かを選び取り、行動を起こすとき――その魂が理そのものに対して再定義を上書きする契機になりうる」
カムロが顔をしかめた。
「つまり……彼はスキルを得るのではなく、スキルという概念そのものを再構築できる存在だというのか?」
サリファの外殻に、肯定を示す波形が広がる。
「推定因果接続性:高。ミロシュの記録によれば、対象存在は"意識下ではまだ動いていない"。
だが――」
「だが?」
「――兆しはすでに現れている。彼は意識的な選択ではなく、無意識の判断によって周囲の法則を"微細にズラしている"。対象との接触時における天候変動、空間重心の不自然な偏移、村域結界の一時的乱調。いずれも極めて微細な現象だが、すべて"彼を中心"に発生していた」
セラフの口元に、かすかな苦笑が浮かぶ。
「……すでに始まっているのだな。世界の"ほつれ"が」
「"定義の端"がめくれ始めている」
とカムロが応じる。
「まだ誰もそれに気づいていない。彼自身すらも。しかし、"気づいた瞬間"が分水嶺となる」
サリファの球体が明滅する。
まるでそこに心が宿ったかのように。
「その瞬間、彼は"ただの生活者"ではなくなる。そしてそのとき我々は――」
セラフ=ハーデンが静かに言い切った。
「"観察者"でいることを許されなくなる」
再び、沈黙が訪れる。
しかし全員が理解していた。
アマギ・コウヤが"何かを望んだとき"。
それはこの世界における定義の終焉、あるいは――
新たな"書き換え"の起点となる。
それが進化をもたらすのか、崩壊を招くのか、まだ誰にもわからない。




