第80話 穏やかな日常
風にまぎれて——
「何か」が光也の胸に触れた。
気温の変化でもない。音でもなく、匂いでもない。
けれど、確かに何かが「内側」へ入り込んでくる感覚があった。
「……っ」
思わず目を閉じる。
視界の奥が淡い光で滲んだ。
風の中に、さざ波のような音が混じっている。
遠い昔の、誰かの声。かすれた子守歌のような、懐かしさと痛みを帯びた響き。
そして、次の瞬間——
足元の感触が変わった。
石畳ではなく、湿った土の感触。
風が吹き、森の匂いが漂う。どこかで鳥が啼いていた。
目を開けたはずなのに、まぶたがどこか重い。
そこに広がっていたのは、今の村ではなかった。
森に囲まれた小さな村の、そのさらに奥まった一角。
切り拓かれた空間に、古びた石造りの家がぽつんと佇んでいた。
朝の光が斜めに差し込み、家の縁側を優しく照らしていた。
軒下に吊るされた乾燥ハーブが風に揺れ、薬草の香りをそっと漂わせている。
その縁側に腰を下ろし、ひとりの小さな少女が地面をじっと見つめていた。
「……咲いたね」
ミオが静かに言った。
その声は囁きのように小さく、けれど確かに、そこに咲いたばかりの白い花に届いていた。
まだ言葉も拙い年頃のはずなのに、その声音には不思議な落ち着きがあった。
まるで、もっと深いところから響いてくるような。
花は風に揺れた。
それが応えているように見えるのは、気のせいだろうか。
けれどミオは、その風の流れと花の揺らぎの中に、何かを確かに受け取っているようだった。
「……寒くなっても、だいじょうぶだよ。おかあさんが、土にあたたかいの混ぜてくれたから」
ミオはそう言って、花にそっと手を添えた。
何を感じ取っているのか、表情は変わらない。
ただ、その瞳だけがどこか遠くを見つめていた。
家の奥、土間のあたりから、鍋をかき混ぜる音が聞こえた。
「ミオ、ごはんできたわよ」
静かな声だった。
その響きには、母親としての確かさと優しさがにじんでいる。
ルネアは鍋の湯気の向こうから娘を呼んだ。
亜麻色の髪をゆるく結び、淡い布のエプロン姿。
身なりに華美なものはなかったが、背筋の伸びた佇まいは、ただの農村の母とは思えない雰囲気を漂わせていた。
ミオは黙って立ち上がると、トコトコと縁側を降り、玄関へと回っていった。
足音すら、風に溶けるように軽い。
ルネアが食卓の前に座ると、ミオも向かいにちょこんと腰を下ろす。
湯気の立つスープと、焼きたての黒パン。
小さく切った果物の蜂蜜漬け。
「……ありがとう」
ミオがぽつりとつぶやいた。
ルネアは一瞬、不思議そうに娘を見る。
そして微笑んだ。
「どうして分かったの?」
「パン、あったかい。中、やわらかい」
「ふふ、よく気づいたわね。今日はちょっと工夫してみたの」
会話はそれで終わる。
ミオはパンを両手で包みこむように持ち、黙々と口に運んだ。
その仕草は、パンの中にある"温度"を大切に確かめているようだった。
食事を終える頃、戸口から声が聞こえた。
「ルネアさん、ミオちゃん、いるかい?」
近所の農家の少年だった。
手には落ちた木の実が数個。
「うちの弟がミオちゃんと遊んでる時にこれを落としてね。届けに来たんだ」
ルネアが笑顔で応える。
「ありがとう。中でお茶でもどう?」
「い、いや……おれはここで……」
少年は言いかけて戸口に目を向けた。
そこに静かに立っていたミオと目が合う。
次の瞬間、少年の表情が引きつり、思わず後ずさった。
「……や、やっぱり行くよ!」
そう叫ぶように言って、彼は走り去った。
ルネアが静かにため息をついた。
ミオは無言で、玄関先に立ち尽くしていた。
「……また、怖がられたの?」
ルネアが優しく問いかけると、ミオは首を振った。
「ううん、違う」
「……違う?」
ルネアが少し首をかしげると、ミオはそっと母の手を握った。
その小さな手は温かく、けれどどこか決意のような強さを秘めていた。
「怖くなっていたのは、その子じゃないよ」
ルネアは一瞬、言葉を失った。
娘の言葉の意味を、咄嗟に理解できなかったのだ。
ミオの目がまっすぐ母を見上げていた。
その瞳には、幼い子どもにはそぐわない静けさと深さが宿っていた。
まるで、誰かの心の奥を見て、それに寄り添ってきた者だけが持つ、優しい強さのようだった。
「泣きそうだったの。だから、さわったの」
ようやく、ルネアは理解した。
ミオは少年の心の中に入り込んでいたのだ。
表面には現れなかったその子の"不安"や"孤独"を感じ取り、静かに包み込んだのだ。
「……そうだったの」
ルネアは、そっと娘の髪に手を伸ばし、なでた。
「それで、その子は落ち着いたのね?」
ミオは小さくうなずいた。
彼女の"力"は、まだ五歳とは思えないほど、静かで確かなものだった。
——ミオは人の気持ちを、言葉になる前から"受け取ってしまう"
それをただ感じるだけでなく、自分の中で受け止め、優しく返すこともできる。
まるで感情の波をなだめる"共鳴装置"のように。
しかし周囲の人々にとって、それは異質な力だった。
理解できない力は、しばしば"恐れ"へと変わる。
そしてルネアは知っていた。
——この力を、封律議会は"異常"と呼ぶだろうということを。
彼らにとって「理」とは、秩序であり、制御であり、分類されるものでなければならない。
"祈り"や"共感"のような、目に見えず、数値化できず、境界を越えるような力は……その理から外れる。
封律議会はそうした存在を、危険な因子として扱う。
力の善悪ではなく、「理に沿っているかどうか」だけで判断する。
ミオのような子は、いずれ査定にかけられ、「理外」として——処分される。
その現実を、ルネアは痛いほど理解していた。
だからこそ、守らなければならない。
この子を、誰にも傷つけさせてはいけない。
どんな手を使ってでも——




