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第7話 沈黙のストレート



シャッ、シャッ――



ロープに吊るされたサンドバッグが不規則な振動とともに揺れている。古びた町のボクシングジム。床は汗で黒く濡れ、革の匂いが充満していた。



リングの上で、一人の少年がヘッドギアを装着する。名を、光也。



トレーナーが手を止めて言う。



「おい、君……今日が初日なんだよな? 本当にやるか?」



返事はなかった。ただ頷くだけ。光也の表情は、水面のように静かで、感情の波は一切見えなかった。



「まあいい、軽くスパーだ。相手はこの春プロテストを受ける奴だが、手加減はしてもらうからな」



呼ばれたのは、鋭い眼差しの青年だった。筋肉の付いた引き締まった身体。ジャブ一つで相手を崩せる正統派のスタイル。



「新入りか。よろしくな。無理はしないよ」



そう言いながら、グローブを合わせる。


だが、試合開始のゴングが鳴った瞬間――


彼の視線が、変わった。




リングにいるのは、確かに二人のはずだった。


だが、拳を交える気配すらない。



青年のジャブが空を切る。続くワンツーも、クロスも、ボディも――すべて。



すべて避けられていた。



いや、それ以前の話だ。



「当たらない」のではなく、「届かない」のだった。



光也は無駄を削ぎ落とした動きで、最小限のステップで、風のように拳の隙間をすり抜けていく。


ガードすら上げない。ただ、"動き"そのもので全てを無効化していた。



青年が眉をひそめる。



「速い……ってわけじゃない。見切られてる……全部……?」



手数を増やし、上下左右に変化を加え、フェイントも織り交ぜる。


だが、それでもなお――触れられない。




まるで、先を読んでいるかのように。




光也の瞳は、何も映していないようで、全てを映していた。


身体の軸、重心移動の前兆、呼吸の乱れ、次の一手。


全てを一つの"流れ"として読み切っていた。



トレーナーが思わず時計を見る。



「……一発も被弾してねぇ。おい、あいつ本当に素人か?」



別の選手が呟く。



「動きが……異常に滑らかなんだ。重さも速さもないのに、空気が避けていくような感じ」







ラストラウンド。


光也はまだ、手を出していなかった。



一度たりとも。



その沈黙が、逆に不気味な緊張を呼んでいた。


リングの外には、いつの間にか見物人が集まり、重苦しい空気が張り詰めていた。


青年が前に出る――その瞬間。



それは、"気配"だった。



一拍、半拍――いや、"予兆"すら存在しなかった。


目で捉えることすらできなかった。


ただ、気づいた時には――拳が届いていた。



右ストレート。



わずかな沈み込みから、滑るように伸びる拳。


筋肉の爆発も、体重の乗った打撃音もない。



静かに、正確に、無音の刃のように。



青年の身体が、一瞬宙に浮き――




ドスン




リングに崩れ落ちた。


カウントは必要なかった。







ジム全体が静寂に包まれた。



光也はただ、黙々とコーナーに戻る。グローブを外しながら、誰とも視線を交わさず、一言も発さない。まるで――それが、極めて自然なことであるかのように。


トレーナーが息を呑み、思わず口元を覆った。



「……これはもう、"武器"だろ。戦場で通じる動きだ」



近くにいた老トレーナーが、低く呟く。



「いや、戦場にいたら……これはもう、"兵器"だよ」





「拳は、何かを守るためにあるものだったはずだ。でも、今の俺は……誰かを"倒す"ために、動いている。それが、戦うということなら――俺は…」



光也の歩みは、揺るぎなく出口へと向かう。



その背に、誰一人声をかけることはなかった。

最初にひとつ、正直なことを言わせてください。


「光也、最初から強すぎた」――これが最大の誤算でした。


成長譚を書くつもりだったんです。なのに気がつけば初日からリングの空気を変えてしまう“兵器”になっていました。


でも、その“強さ”の奥に、彼自身もまだ気づいていない脆さや空洞がある――

そう信じて、物語は続いていく予定です。


彼が“本当に強くなる”その瞬間を、いつか描けたらと思っています。


その時まで、ぜひお付き合いください。



いや、その後が本編なんですけれどね。タイトル回収まではもう少しかかりそうです…


毎朝6時に投稿していきます。

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