第69話 夜会議
朝の霧が静かに村を包んでいた。
陽の光がまだ地平を越えきらぬ頃、畑の地面はしっとりと濡れ、空気の奥には淡く冷えた匂いが漂っていた。
光也は額に汗を浮かべながら、鍬を片手に土をほぐしていた。
傷はほぼ癒えたものの、全快とは言いがたい。
体を動かすと、背中の筋がまだどこかぎこちなく張る。
その隣では、ヒカリが無言で苗の間を歩き、小さな芽に水をやっていた。
白いスカーフを首に巻き、栗色の髪が朝霧の中でふんわりと揺れている。
時折こちらをちらりと見るが、特に何も話さずにまた作業に戻る。
いつも通りの静かな時間。
そんな中、ふとヒカリが手を止めた。
「……この霧、前より"乾いてる"」
ぽつりとこぼれたその言葉に、光也は顔を上げた。
「乾いてる?」
ヒカリは肩越しにちらりとこちらを見たが、すぐに目を逸らした。
「……いや、気のせいかも」
それきり彼女は黙り込み、水の入った桶を少し持ち直して歩き出した。
光也は言葉を返さず、その小さな背中を見つめながら、内心でそっと反芻する。
(乾いてる霧……?)
彼にはその違いがわからなかった。
霧はいつも霧でしかなく、濡れることはあっても、乾いているとは思わない。
けれど、ヒカリの言葉にはどこか確かな実感が込められていた。
理屈ではなく、"感じ取っている"何かがあるのだ。
風が緩やかに流れ、畑の端に立つ木々の葉がざわりと音を立てる。
光也はゆっくりと鍬を再び構え、ひとつ息を吐いた。
(気のせいかも、って……きっと、本当は気のせいじゃないんだろうな)
彼女の言葉を、軽く流すことはできなかった。
今日の霧は、確かに"普通じゃない"のかもしれない。
それを知っているのは、きっと――この村で、彼女だけだ。
*
夜の村は静けさに包まれていた。
家々の灯が一つ、また一つと消えてゆき、辺りには虫の声と遠くで揺れる風の音だけが残されている。
村外れの古い倉庫跡。
使われなくなったその小屋に、光也は音を立てぬよう慎重に足を踏み入れた。
すでに中には冒険者パーティ《ルミナリス》の四人が集まっていた。
マリスが最奥の木箱に腰かけている。
ティナは巻物を広げ、手元の小型ランタンの下で何かを書き留めていた。
グレンナは腕を組んだまま壁に寄りかかり、エルメラは静かに祈るような姿勢で床に座っている。
光也が扉を閉めると、ティナが顔を上げた。
「お疲れ。体、大丈夫?」
「うん、何とか動けるくらいには。少し……筋肉痛だけどね」
軽く笑って返す光也に、グレンナが小さく鼻を鳴らした。
「無理すんなよ。お前の骨は、あの時だいぶやられてたんだ」
光也はうなずきながら口を開いた。
「今日、畑でヒカリさんと一緒に作業してたんだ。そしたら彼女がふと――"この霧、前より乾いてる"って」
言った瞬間、ティナの手が止まり、マリスが目を細めた。
「乾いてる……? 霧が?」
「うん。俺には何のことかわからなかったけど、彼女は確かに"感じてた"みたいだった。ただ、言ったあとですぐ"気のせい"って引っ込めた」
ティナが顎に指を当て、考え込んだ。
「通常の五感では判別できないはず。霧は水分含有量にばらつきがあるけど……肌に触れた感触で『湿ってる』と『乾いてる』を比較できる人間は、まずいない」
「つまり、それだけ繊細な感覚を持ってるってこと?」
光也が尋ねる。
「ううん、それだけじゃない。たぶん、彼女の感知能力は普通のスキルとは"少し構造が違う"。目に見える形じゃなく、空間や構造の"変位"に直感で気づくタイプかもしれない」
ティナの声には分析者としての確信が滲んでいた。
「ヒカリがそういうスキルを持っているとしたら、彼女はその自覚が……?」
光也が言いかけたところで、マリスが静かに言葉を挟んだ。
「――ないな。少なくとも、自分が"何か特別"だとは思っていない節がある」
彼女の瞳がわずかに陰を帯びる。
「過去の発言を振り返る限り、あの子は"異常なことに気づけてしまう自分"に戸惑っている。けれど、それを周囲に否定され続けてきた。だから言わないんだ。"また私の気のせいだ"って、自分に言い聞かせている」
重たい沈黙が落ちた。
光也は、あのとき畑で見せたヒカリの目――「気のせい」と言った後の、少し伏せた表情を思い出していた。
「彼女が感じている違和感は、本物なのかな」
「本物だ」
とティナがきっぱりと言った。
「ただの直感じゃない。あの子はこの村の"変化"に真っ先に触れている。おそらく、我々よりもずっと繊細に、ずっと深く」
光也は拳を握った。
「じゃあ俺は……彼女の目を信じるよ。彼女が違うと言えば、違う。彼女が怖いと感じるなら、そこには何かある」
マリスがわずかに頷いた。
「今後も彼女と接触を続けてくれ。だが気取られるな。黒幕たち――ボリオ、エルナ、カリム、そしてレマは、我々の出方を静かに見ている」
「分かってる。……慎重にやるよ」
小さな会議は、そうして静かに締めくくられた。
外に出た光也の頬を、夜霧が撫でる。どこか、ひどく乾いた感触だった。




