第67話 ゆっくり動き出す日々
朝霧がまだ地面に這っているころ、光也は軋む身体を引きずりながら畑へ向かった。
ルミナリスのメンバーの助けもあり、怪我は徐々に癒えてきている。
だが、以前のようには動けない。
もともとスキルを持たない彼にとって、この世界で自由に動くことはそもそも難しかった。
畑では、若い男の村人が鍬を肩に担ぎ、軽々と畝を起こしていた。
土の香りと朝日の温もりに包まれ、そこはまるで別世界のようだった。
「よっ、光也さん」
笑顔で手を振ってきたのはレオンという青年だった。
少し癖のある栗色の髪に、土で汚れた作業着。
素朴で屈託のない眼差しが眩しい。
「調子はどうです? 動いて大丈夫なんすか?」
「……まぁ、無理はしないつもりです。今日はリハビリも兼ねてだから」
光也はそう言いながら、やや重そうに鍬を両手で持ち上げる。
腰を入れ、息を吐きながら一度土を割る。
だが動作はぎこちなく、鍬の先が浅く土をえぐるだけだった。
「……うーん、道は遠いな」
苦笑する光也を見て、レオンが爽やかに笑った。
「不器用だけど、ちゃんと筋はありますよ。あとは数こなすだけっす」
「……それ、褒めてます?」
「もちろんですって」
照れくさく笑いながら、光也は額の汗を拭った。
体は重い。反応も鈍い。でも、ここで何もしないまま居るわけにはいかなかった。
それは、恩に対する小さな返礼。
ふと視線を感じ、顔を上げると、畑の端にカリムが立っていた。
記録係の彼は、いつもと変わらない落ち着いた表情で、手帳を片手に小さく手を振る。
「おはよう、光也さん。今日は畑のお手伝い?」
「ええ、まぁ。動けるようになったので」
カリムはにこやかに頷くと、傍らに寄って、光也の足運びをさりげなく観察する。
歩行のリズム、呼吸の深さ、汗の量、手の震え——そのすべてを、表情一つ変えずに記録していた。
「無理はしないようにね。……スキルがない者にとって、回復のプロセスは未知な部分も多いから」
「……はい。ありがとうございます、気をつけます」
言葉は優しい。
だがその目は、光也の中に"何もない"ことを確かめようとするように静かだった。
その後ろから、ゆっくりとボリオもやってきた。
穏やかな中年の笑顔を浮かべ、手には木のバスケット。
朝採りの果実を入れて、村の若者たちに配っていた。
「光也くん、いい顔してるな。体を動かすのはやっぱり気持ちがいいだろう?」
「まぁ……体は正直、悲鳴をあげてますけど」
ボリオはふふっと笑い、肩を叩く。
「無理しないことが一番だよ。この村は、急がなくてもいい場所だからね」
優しげな言葉。
その背後に何かを探ろうとする気配はない——ように見える。
だが光也の反応や返答、その一挙一動を、ボリオはまるで空気の流れを読むように把握していた。
ふと、作業をしていたレオンがつぶやく。
「不思議だなぁ。光也さん、なんか"前にもどこかで畑やってた人"みたいに見えるっすよ」
「それは……新手の皮肉かな」
「いえいえ、マジで。土の扱いとか道具の持ち方、覚えるの早いっすよ。やっぱ"性質"ってあるんすかねぇ」
光也は一瞬、返事に困りながらも曖昧に笑った。
(性質、か……前世で学んだことがいくらか役に立っているのかな)
「努力型だよ、きっと」
ボリオの声が柔らかく重なった。
気づけば村のあちこちで、光也の名前がささやかに出始めていた。
異物としての距離はまだある。
けれど、否定的な目ではない。
土の香り、穏やかな日差し、緩やかな会話——
それは一見、平和な日常のようだった。




