第60話 静かな音
風が止んでいた。
崩れ落ちた吊り橋の残骸が谷底に見え隠れし、先ほどまでの緊迫した空気が嘘のように静まり返っている。
谷間の対岸、救われた少年は光也の隣を歩いていた。
まだ涙の跡が残る頬を何度も袖でぬぐいながら、光也の手をぎゅっと握り直している。
「名前、なんて言うの?」
光也が優しく声をかけると、少年は恥ずかしそうに俯きながら答えた。
「……ユリオ」
「そっか、ユリオくん。大丈夫。もう安全だからね」
光也の言葉に、ユリオはコクリと小さくうなずいた。
だが、その小さな肩はまだわずかに震えている。
後ろを振り返ると、マリス、グレンナ、ティナ、エルメラが歩いてきていた。
誰も言葉にはしないが、その歩調は少しずつ揃い、確かな安心感を漂わせている。
谷を迂回する細道を進む中、ティナが突然足を止めた。
「ここ……何度も通ってる気がする。さっきもこの倒木、見たはず」
マリスも足を止め、周囲を見回した。
「結界による空間のループ……か。よくある"拒絶型"の構造だ」
「たどり着けないのは、わたしの記憶違いだったせいかもしれない……」
ティナは眉をひそめ、額に手を当てた。
「昔、冒険者仲間に言われたの。"風を巻く木を三度越えろ"って……でも、今思い出した。正しくは――」
彼女の声が震えた。
「"風が止む前に三度、巻き枝を越えろ"……だった」
「順番が違った……?」
グレンナが眉をひそめる。
「うん。巻き枝のある木は何本もある。でも、風が吹いている間に"三番目"の木を越えなきゃいけなかった。あの時の"風の切れ目"がヒントだったのに……」
そう言って、ティナは悔しそうに唇を噛んだ。
すると、そばで黙っていたユリオがぽつりと口を開いた。
「……風が止む前に三度、巻き枝のある木を越えると、道が"切れる"。そして、"静かな音"が聞こえる方に進めって、言われてる」
「静かな……音?」
エルメラが小首をかしげた。
「風がなくなると、音がよく聞こえるようになるでしょ。そこに"水琴窟"みたいな石があるの。カン、カンって鳴ってる。そこが村への入口だよ」
全員が息を呑んだ。
「……君、ディアルの村の子なのか?」
マリスが確認するように問う。
ユリオは頷いた。
「でも……村を出てたのは、ぼくが勝手に……」
言い淀む少年の頭を、光也がそっと撫でる。
「ありがとう、ユリオ。君のおかげで、助かった人がいる。だから、もう十分」
マリスはすぐに態度を切り替えた。
「ティナ、記憶の修正と情報の統合を。風の流れと巻き枝の位置を確認し直す。私が風向きを観測する。ユリオ、案内は頼めるか?」
「うん!」
陽が傾きはじめた森の中、彼らは再び歩き出した。
風がやがて、静かに止んだ。
そして――
森の奥、誰も気づかなかった岩のくぼみから、水滴の音が響いた。
カン……カン……
ティナが声を震わせる。
「……聞こえる……!」
木の陰に隠れるようにして現れた石のアーチ。
その先には、霧のヴェールに包まれた細道が続いていた。
「行こう」
マリスの声に、全員が頷く。
こうして、ルミナリスと光也、そしてユリオは――
隠者の村へと、確かに一歩を踏み出した。




