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第6話 理に触れた掌

体育館の天井は高く、静かに響くのは空調の音だけだった。



広いフロアの隅で、ひとりの少年が静かに道着に着替えていた。名前は光也。



本来なら、彼がここにいるはずはない。今日行われているのは、実業団チームによる柔道の国体候補選手向けの外部講習会。参加者のほとんどは、全国大会や国際大会を視野に入れる強者ばかりだった。



その中に、ぽつんと混じる見慣れない少年。



背は決して高くなく、筋骨隆々というわけでもない。だが、周囲の猛者たちが時折視線を送ってくるのは――その立ち居振る舞いに、何か言葉では言い表せない"整い"があったからだ。



まるで、すべてが計算し尽くされたかのような重心移動。



無駄な力が一切感じられない動作。



「ただの素人じゃなさそうだな」



「柔道経験者か……?」



「いや、あんなやつ、試合で見たことないぞ」



ささやきが空気を伝うように広がっていく。


そして――講習会の後半、乱取りの稽古に入った。





最初に組んだ相手は95キロはある重量級の大学生だった。シャツの上からでも筋肉が隆々と浮かび上がる体格で、経験も実績も申し分なかった。



「いいか?細いからって手加減するなよ。むしろ、お前のお手並み拝見といったところだ」



その言葉に、周囲から小さな笑いが漏れた。


しかし、開始の合図からわずか3秒後――




ドンッ




乾いた音が響き、その巨体は宙を舞い、背中から畳へと叩きつけられた。



「……え?」



当の本人が、思わず声を漏らした。



何が起きたのか理解できなかった。まるで風に押されるような軽やかな力で、自分の重心が一瞬のうちに崩されていた。



技の名前すら分からない。ただ、腕を取られ、体の横に"何か"が通り過ぎた瞬間、天地が逆転していた。



周囲がざわつく。



次の乱取りへ――



次の相手も、重量級の選手だった。


しかし、結果は変わらなかった。


今度は払い腰かと思われたが違う。内股に見せかけて、足を刈る"崩し"の段階ですでに勝負は決していた。



どの投げにも共通していたのは、"力"がまったく感じられないことだ。



光也の動きは静かで滑らかだった。呼吸のように自然で、組んだ瞬間に相手の重心の"わずかな揺れ"を感じ取り、そこを崩して投げる。



それは、もはや"技術"ではなかった。




"理"だった。




投げられた選手の一人が、起き上がりながらつぶやいた。



「なんだこれ……本当に一瞬。何が起きたのか……わからない……」



コーチ陣の中でひときわ目つきの鋭い男が、その様子を見つめていた。


彼は実業団の監督、かつて全日本の選手を何人も育て上げた名伯楽だ。


腕を組み、無言で数回の投げを見届けた後、ぽつりとつぶやいた。



「……こいつ、投げの"理"を完全に理解してやがる」



周囲の指導者たちが顔を見合わせる。



「理解って……まだ少年ですよ?」



「いや、理論じゃない。身体で"会得"している。しかも、無意識にだ」



――崩しの原理。


――足運びの無駄を削ぎ落とした最短経路。


――力ではなく、重心を流すという動き。



まるで、投げられることが"自然"であるかのように錯覚させる技。



"柔よく剛を制す"という言葉は、ここに体現されていた。





その後も、光也は黙々と乱取りを続けた。


技を極めても表情一つ変えず、ただ礼をして立ち上がるのみ。


投げられた相手たちは、皆同じような感想を漏らした。



「気がついたら宙を舞っていた……」



「まったく力みがないのに……」



「でも、どうしても抜けられない。不思議な感覚だ」







「――力だけでは、守れなかった。だから俺は、"理"を知る。世界の理、戦いの理、人の心の理――そのすべてを掴む手がかりになるなら、何でも学ぶ。たとえ、孤独でも……」




体育館の隅で、光也は静かに立っていた。水も飲まず、汗も拭わず。


虚空を見つめるその姿は、どこか儚げだった。


その眼差しは、すでに何かを超越していた。人との競争でもなく、勝利への執着でもない。



――ただその先にしか、もはや生きる意味を見出せないのだと。


光也という少年の姿には、「到達点」というよりも「通過点」の匂いがあります。

誰よりも研ぎ澄まされていながら、どこか孤独で、まるでこの世界に"居場所"を持っていないような、その佇まい。


技の正確さや戦績では測れない、"戦う意味"の問い。


毎朝6時に投稿していきます。

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