第6話 理に触れた掌
体育館の天井は高く、静かに響くのは空調の音だけだった。
広いフロアの隅で、ひとりの少年が静かに道着に着替えていた。名前は光也。
本来なら、彼がここにいるはずはない。今日行われているのは、実業団チームによる柔道の国体候補選手向けの外部講習会。参加者のほとんどは、全国大会や国際大会を視野に入れる強者ばかりだった。
その中に、ぽつんと混じる見慣れない少年。
背は決して高くなく、筋骨隆々というわけでもない。だが、周囲の猛者たちが時折視線を送ってくるのは――その立ち居振る舞いに、何か言葉では言い表せない"整い"があったからだ。
まるで、すべてが計算し尽くされたかのような重心移動。
無駄な力が一切感じられない動作。
「ただの素人じゃなさそうだな」
「柔道経験者か……?」
「いや、あんなやつ、試合で見たことないぞ」
ささやきが空気を伝うように広がっていく。
そして――講習会の後半、乱取りの稽古に入った。
*
最初に組んだ相手は95キロはある重量級の大学生だった。シャツの上からでも筋肉が隆々と浮かび上がる体格で、経験も実績も申し分なかった。
「いいか?細いからって手加減するなよ。むしろ、お前のお手並み拝見といったところだ」
その言葉に、周囲から小さな笑いが漏れた。
しかし、開始の合図からわずか3秒後――
ドンッ
乾いた音が響き、その巨体は宙を舞い、背中から畳へと叩きつけられた。
「……え?」
当の本人が、思わず声を漏らした。
何が起きたのか理解できなかった。まるで風に押されるような軽やかな力で、自分の重心が一瞬のうちに崩されていた。
技の名前すら分からない。ただ、腕を取られ、体の横に"何か"が通り過ぎた瞬間、天地が逆転していた。
周囲がざわつく。
次の乱取りへ――
次の相手も、重量級の選手だった。
しかし、結果は変わらなかった。
今度は払い腰かと思われたが違う。内股に見せかけて、足を刈る"崩し"の段階ですでに勝負は決していた。
どの投げにも共通していたのは、"力"がまったく感じられないことだ。
光也の動きは静かで滑らかだった。呼吸のように自然で、組んだ瞬間に相手の重心の"わずかな揺れ"を感じ取り、そこを崩して投げる。
それは、もはや"技術"ではなかった。
"理"だった。
投げられた選手の一人が、起き上がりながらつぶやいた。
「なんだこれ……本当に一瞬。何が起きたのか……わからない……」
コーチ陣の中でひときわ目つきの鋭い男が、その様子を見つめていた。
彼は実業団の監督、かつて全日本の選手を何人も育て上げた名伯楽だ。
腕を組み、無言で数回の投げを見届けた後、ぽつりとつぶやいた。
「……こいつ、投げの"理"を完全に理解してやがる」
周囲の指導者たちが顔を見合わせる。
「理解って……まだ少年ですよ?」
「いや、理論じゃない。身体で"会得"している。しかも、無意識にだ」
――崩しの原理。
――足運びの無駄を削ぎ落とした最短経路。
――力ではなく、重心を流すという動き。
まるで、投げられることが"自然"であるかのように錯覚させる技。
"柔よく剛を制す"という言葉は、ここに体現されていた。
*
その後も、光也は黙々と乱取りを続けた。
技を極めても表情一つ変えず、ただ礼をして立ち上がるのみ。
投げられた相手たちは、皆同じような感想を漏らした。
「気がついたら宙を舞っていた……」
「まったく力みがないのに……」
「でも、どうしても抜けられない。不思議な感覚だ」
*
「――力だけでは、守れなかった。だから俺は、"理"を知る。世界の理、戦いの理、人の心の理――そのすべてを掴む手がかりになるなら、何でも学ぶ。たとえ、孤独でも……」
体育館の隅で、光也は静かに立っていた。水も飲まず、汗も拭わず。
虚空を見つめるその姿は、どこか儚げだった。
その眼差しは、すでに何かを超越していた。人との競争でもなく、勝利への執着でもない。
――ただその先にしか、もはや生きる意味を見出せないのだと。
光也という少年の姿には、「到達点」というよりも「通過点」の匂いがあります。
誰よりも研ぎ澄まされていながら、どこか孤独で、まるでこの世界に"居場所"を持っていないような、その佇まい。
技の正確さや戦績では測れない、"戦う意味"の問い。
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