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第48話 出発の朝


朝の光は霞んで見えた。


眠ったような、けれどどこか覚めきらないまま迎えた朝だった。



荷造りは昨夜のうちに済ませていた。


クラリスから借りた本は、そっと鞄の奥に入れた。


返す時間がなかったわけではない。


ただ、どうしてももう少しだけ持っていたかった。


それは自分がこの屋敷にいた証のように思えたからだ。



食堂には行かず、早めに玄関近くの広間へと向かった。


扉の前で待っていたのは、すでに揃っていたマリスたち冒険者たち。


全員、軽装の中にもどこか張り詰めた空気を纏っていた。



「急で悪いけど、出るよ。今すぐ、ね」



マリスの言葉に、光也は小さくうなずいた。


マリスは視線を落とし、少しだけ間を置いた。



「ラガン家には王城からの監察官が近づいている。表向きは"視察"だけど、こっちの動きとタイミングが合いすぎている」



「お前を預かっている間、私たちも動いていた。……"スキルがない"ことについて、あちこち当たってみた」



光也は思わず息をのんだ。


マリスは言葉を選びながら続けた。



「正直、ほとんど手がかりはなかったよ。でも、どこか……妙に、情報の穴があるんだ。まるで最初から"そういう記録は存在しない"みたいに。隠されている、あるいは……最初から、誰も知らないことなのか」



グレンナが腕を組みながら、ぼそりと口を挟んだ。



「……でもよ、そういう"空白"ってのが、かえって手がかりになることもあるんだとさ。マリスが漁っていた古文書の中に、百年前に記録を消された召喚者の話があったんだ。直接どうこうってわけじゃねぇけど……お前のこと、ちょっと思い出させる内容だったぜ」



「……僕が、何か"特別"だということですか」



「さあな。今はまだ、分からない」



マリスは短く答えた。



「でもひとつだけ確かなのは、お前を王城に戻すわけにはいかないということだ。ここも、もう安全とは言えない。だから先に動く」



光也は、心の中で静かに整理する。



心のどこかでは、こうなることを分かっていた。


穏やかな日々は、ずっとは続かない。けれど、それでも——。



「……クラリスさんに、挨拶したかったな」



つぶやいた言葉は、誰の耳にも届いたのか、届かなかったのか。



マリスはふっと目を伏せた。



「……悪い。時間がない」



光也は黙ってうなずいた。



それ以上、何も言わなかった。




馬車の前で、ラガン伯爵が待っていた。



「旅の用意はできている。すでに屋敷の周辺も警戒を強めている。……だが、それも限界がある」



「……ありがとうございました。いろいろと」



「礼には及ばぬ。お前がこの家で見せた礼節と努力には、敬意を払っている。——そして、願わくば。何よりも、お前自身が自分を見失わぬようにな」



伯爵の声は硬くもあたたかかった。



光也は深く頭を下げて、馬車に乗り込んだ。




馬車がゆっくりと石畳を走り始めたとき、光也はふと、屋敷の中庭の回廊に視線を向けた。



遠く。



人影があったような気がした。


白い制服、整えられた銀髪。あれは——


(……クラリス、さん?)


思わず身を乗り出しそうになるのを堪える。



距離が遠くて、顔はよく見えない。


けれど、こちらを見ていた気がした。


そんな気がしただけだったかもしれない。



でも——



(ちゃんと、ありがとうって言いたかった)



胸の奥がじんと熱くなる。


けれど、それをどうすることもできなかった。


窓越しに、光也はそっと頭を下げた。


誰にも見えない、小さな動作だった。



そして、馬車はゆっくりとラガン邸の門をくぐり抜け、静かに世界の外へと走り出していった。





朝靄のなかを進む馬車の車輪が、道端の小石を巻き込みながらリズムよく軋んでいた。


窓の外には、まだ朝露に濡れたままの若葉が風にそよいでいる。


ラガン邸を発ってから数時間。


光也は背もたれに浅く寄りかかりながら、ぼんやりと天井の梁を見つめていた。



「……はぁ、僕がここにいて本当にいいのかな……」



そんな呟きをかき消すように、目の前のテーブルに地図が広げられる音がした。



「では改めて。討伐時の配置確認を始めます」



マリスの端正な顔が凛と引き締まっている。


旅の最初の休憩地点を目前に、《ルミナリス》の戦術会議が始まろうとしていた。



「……え、討伐? これからやるの?」


と光也が戸惑う間に、グレンナが腰を上げ、どっかと光也の隣に座った。


分厚い腕が当たって、光也はびくっとする。



「逃走のカモフラージュも兼ねて、な。お前、あたしと一緒に行動するんだ。戦闘中、常に一メートル以内にいろ」



「……はい?」



「いや、分かってねぇな。実際に繋いどくぞ。ロープで」



そう言ってグレンナは荷物袋からごそごそと麻縄を取り出す。



「えっ、えっ、えっ、ちょっと待って!? さすがにそれは——」



「ぐだぐだ言うな。私が命張って守るんだから、逆に安心だぞ?」



グレンナが腕を組んでうなずく。


その声には迷いがない。



マリスが咳払いし、落ち着いた口調で話を引き継ぐ。



「ティナ、後方の監視をお願い。敵の接近方向を事前に把握しておきたい。退避ルートは三本用意してある。東の崖道、西の獣道、そして……真下だ」



「真下?」



光也が首をかしげると、マリスは補足した。



「地面の下に空洞があることが分かっている。おそらく古い洞窟か、魔獣の巣か……。どちらにせよ、緊急時には使える可能性がある」



「真下に逃げるって……どうやって?」



その問いに、エルメラが元気よく手を挙げる。



「はいっ、転移魔法ですっ! ただし、距離が短いので最後の手段でお願いします!」



「え、でも……そこが魔物の巣だったら逆に危ないんじゃ……?」



おそるおそる尋ねた光也に、エルメラは満面の笑みで返す。



「だからグレンナさんとロープで繋がってれば安心でしょ?」



「そのロープが……なんか一番不安なんだけどなぁ……」



光也が肩を落とすと、グレンナがにやりと笑って麻縄を手にした。



「大丈夫だ。私が結ぶ。戦場で絶対にほどけない"戦士結び"ってやつをな」



ティナが隅でくすりと笑った。



「心配しなくていいよ、光也くん。私たちは、あなたを無事に守りきる。それが今回の最優先任務だから」



その言葉に、光也は何とも言えない感情を覚えた。



ここにいる誰もが、自分をただの荷物だとか、厄介な異邦人だとか思っていない。


むしろ、「守る」という行為に、誇りを持っているようにさえ見えた。



「……あの、僕、本当にそんなに手間をかけるほどの……?」



その問いに、マリスが一拍おいて、答える。



「かけるんだよ」



そしてすぐに他の三人も重ねる。



「かけるんだよ!」


「かけるんだよ!」


「かけるに決まってんだろ!!」



声が重なった。


妙に息の合ったその即答に、光也はぽかんと口を開け、次の瞬間には、笑っていた。


馬車の中は、どこか戦場前とは思えない、温かい空気に包まれていた。



そしてその中心には、確かに——守られようとしている、ひとりの少年の姿があった。



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