第44話 お兄ちゃん
光也がラガン邸での生活に少しずつ馴染み始めてから、数日が経った。
朝、扉の向こうからコツン、コツンと規則正しいノックの音が響いた。
「コウヤおにーちゃーんっ!」
――ドアが開く前に、声のほうが先に飛び込んでくる。
ガチャリ。
「おはよっ!」
半分も返事を聞かぬうちに、金髪を三つ編みにした小さな女の子――ミナが、勢いよく部屋に飛び込んできた。
「あっ、ちょ、ちょっと待ってミナ……!」
ベッドの上でまだシャツのボタンを留めていた光也は、慌てて背中を向ける。
「お兄ちゃん、まだ着替え中なの? 遅いよぉ~、今日のおままごとの約束、忘れてないよね!?」
「わ、忘れてないけど、あと三分……せめて三分だけ待ってくれ……」
「やだ! 今日の役は『旅に出たお兄ちゃんが帰ってきた王子さま』なの! お姫さまはわたし!」
すでに役が決まっているらしい。
光也は苦笑しながら、シャツのボタンを手早く留めた。
その日の午前中、ラガン邸の広々とした裏庭では、謎のロールプレイが展開されていた。
「姫、お久しぶりです……旅を終えて、今戻りました」
「おそいっ!」
ミナが花の冠を被って両手を腰に当て、仁王立ちしている。
「王子さまはね、帰ってきたらまず"抱っこ"っていうのが常識なの!」
「そんなファンタジーな……」
「じゃあ、もういいっ!」
「ええっ!?」
結局、光也は花まみれの王子として、抱っこどころか姫のための玉座――芝生に敷いた毛布――にお茶を運び、うさぎの人形に話しかけるという謎の任務を言い渡された。
*
午後、部屋に戻ると、今度は「絵本読んで!」の時間が始まった。
ミナは光也のベッドに横になり、毛布を引っ張っては自分だけくるまろうとする。
「はいはい。じゃあ今日はこれにしようか、『ドラゴンの国の迷子の子ねずみ』」
「うんっ」
光也が読み上げ始めると、ミナは顔を埋めるようにして小さく身を丸め、時折「ふふっ」と笑ったり、「あっ、そここわいとこだよ……」と小声でささやいたりする。
その姿は、まるで本当の妹のようだった。
ほんの数日前まで、命からがら逃げ回っていた自分が、今はこんな静かな時間を過ごしている——
それがどれほど貴重なことか、ようやく実感し始めていた。
ところが。
その日の夕方、事件は起こった。
「じゃあ、おままごとをしよっ!」
とミナが持ってきたのは、ぬいぐるみと紙の皿。そして謎の茶色いスライム状のものが乗った玩具のスープ。
「え、これなに?」
「スープです! お兄ちゃんは、仕事帰りで疲れてるパパ役!」
「え、仕事ってどんな……?」
「えっと……魔物退治!」
「いや、それはちょっとリアルすぎて……」
「うるさいっ!」
ミナは突然、ちゃぶ台(小さな子供用の机)をバンと叩いた。
「セリフは『ただいまー、今日も大変だったよ』って言うの!」
「えっと……ただいまー、今日も……魔物……大変だったよ……?」
「ちがうっ!! もっとちゃんと演じて!! もっと"パパ"して!!」
「いや、パパって……」
その瞬間だった。
ミナの手がぶん、と振り上がり——
「お兄ちゃんのバカーーーーっ!!!」
パァンッ!!!
光也の頬に、小さな手のひらが炸裂した。
その威力たるや、室内で不意打ちの突風を受けたような衝撃。
光也の体は本当に、文字通り、宙を舞った。
「うわっ……あ゛っ!」
ゴンッ!
壁に肩をぶつけ、そのまま床に大の字に倒れ込む光也。
ぬいぐるみたちが倒れ、スープ皿が転がった。
「い、いたたた……な、なんだこの破壊力……。子供……だよな?」
「う、ううう……うぇぇぇえええん!!」
急に泣き出すミナ。
「ご、ごめんなさぁいっ……お兄ちゃんが、お兄ちゃんがバカだからぁああ……っ」
「いや、なんで泣くの!? 僕が今、壁と一体化しそうだったよ!?」
光也が慌てて起き上がると、ミナはその胸に飛び込んできて、涙でぐしゃぐしゃの顔を擦りつける。
「だ、大丈夫だから……泣かないで……ほら、ほっぺ痛くないし。たぶん」
(いや、本音はめっちゃ痛いけど)
「ほんとに……? ほんとに怒ってない?」
「怒ってない。でも次から張り手はナシで、お願い」
「うんっ!」
ケロッと笑うミナに、光也は小さく溜息をついた。