第43話 穏やかな日常
ラガン邸に朝の光が差し込む。
高く天井の抜けた食堂の窓から、薄く透けるレース越しに黄金の陽が流れ込み、大理石の床を静かに照らしていた。
光也はその朝も、食卓の端にそっと腰掛けていた。
正面には大きな銀の皿。パンが一切れ、スープが半分。
手をつけるのにも時間がかかっていた。
「……あまり、お口に合いませんか?」
ラガン夫人が優しく尋ねると、光也は慌てて首を振った。
「い、いえっ……すごく、美味しいです。ただ、あんまり慣れてなくて……」
「ふふ、それならよかったわ」
微笑む夫人の声が、静かな空間に柔らかく響く。
そのやりとりを黙って見守っていたクラリスが、そっと紅茶のカップに口をつけると、まるで話題が終わったと言わんばかりに視線を外した。
光也はその仕草を横目で見ながら
(やっぱり、まだ距離があるな……)
と胸の内で呟いた。
*
日々は静かに流れていた。
最初の頃は、扉が開く音にびくりと反応し、使用人に声をかけられても俯いてしまうような光也だったが、数日が経つ頃には少しずつ表情が和らいでいた。
夜はふかふかのベッドで、ようやく深く眠れるようになった。
朝の目覚めも軽く、食事も、最初よりしっかりと摂れるようになっていた。
ラガン家の使用人たちも、礼儀正しく感謝の言葉を欠かさない光也に好意的だった。
「若様」とからかうように呼ぶ者もいたが、それはどこか、光也を家族の一員として認め始めている証でもあった。
*
ある日。
館の奥にある書斎の扉がわずかに開いていた。
光也はその隙間から中を覗き込み、手にした皿の菓子をつい忘れて立ち尽くした。
その奥には、机に向かって静かに本を読んでいるクラリスの姿があった。
陽の光に白銀の髪がきらきらと揺れ、まるで絵画の中の人物のように見えた。
彼女がふと顔を上げると、視線が重なる。
光也は一瞬で逃げ出そうとするが、クラリスの低い声が先に届いた。
「……何をしてるの?」
「ご、ごめんなさい! 邪魔するつもりじゃ……」
「あんた、文字は読める?」
「……え?」
「ここの本、読む気だったんでしょ? 文字、わかるの?」
光也はしばし迷った後、小さく頷いた。
「読めない、けど……見てると、なんとなく形が分かる気がして。……興味はあるんです」
クラリスはじっと光也を見つめ、やがて、ため息をひとつついた。
「じゃあ……ここに来なさい。いちいち覗かれるのも落ち着かないし」
彼女は椅子を少しずらして、光也に横のスペースを指し示した。
驚きつつも、光也は恐る恐る近づき、彼女の隣に腰を下ろす。
*
それから数日。
光也は午前中の時間を、クラリスと共に過ごすようになった。
彼女は書斎で読む本を選び、最初は簡単な童話の絵本を開いて、光也に指を差しながら単語を教えた。
光也は目を輝かせ、何度も頷き、メモを取り、時には熱心に質問を重ねた。
クラリスは最初こそ「めんどくさい」と顔に出していたが、光也の吸収力の速さと素直な反応に、次第に感心を覚えるようになった。
「……スキルはないけれど、学ぶ力は悪くないわね」
ふと漏らしたその言葉に、光也は少し照れたように笑った。
「そう言ってもらえると、ちょっと自信つきます」
ある午後の散歩。
ラガン邸の裏庭には、季節の花が咲き誇る小道があり、クラリスがその一本の赤い花を指して話しかけた。
「あれは"サルフェリオ"。春の終わりを告げる花」
「へえ……すごく綺麗ですね。なんか、燃えているみたいだ」
「……面白い言い方ね」
クラリスは思わず笑った。
それは光也が見た中で、一番自然な笑顔だった。
「光也は、前の世界ではどんな花が好きだったの?」
「そうだなぁ……夜にしか咲かない花があって。月の光を浴びると、すごく綺麗なんです」
「ほんと? 作り話じゃなくて?」
「ほんとです。『月下美人』っていうんです。たった一晩しか咲かないけど、その夜の美しさは一生忘れられないくらい……」
クラリスはそれを真剣な表情で聞きながら、小さく呟いた。
「……会ってみたいわね。その花」
その時、ふたりの間には、もう最初のような壁はなかった。
ただの"客人"ではなく、光也は今、確かにラガン家という場所に居場所を得つつあった。
彼の心は少しずつ、ここを"家"と感じ始めていた。
だが、その平穏を脅かすものは、静かに、王都の影の中から忍び寄っていた──。