第42話 クラリスと光也の“距離”
ラガン邸の応接室に、ひとときの静寂が降りた。
カップの紅茶はすでに冷めかけ、皿に残るクッキーの甘い香りだけが空気に漂っている。
それは、別れの気配だった。
「そろそろ行くわね」
最初に立ち上がったのは、マリスだった。
外に待機している馬車の時刻と、次なる行動の計画が彼女の中ですでに組み立てられていたのだろう。
光也は、まだその場に立ったまま、呆然と彼らを見ていた。
ほんの数日──されど、それは光也の人生の中で、初めて「誰かと共にいた」と実感できた日々だった。
その温もりが、今まさに背中から抜け落ちていくような気がした。
ふわりと視界の端に、小さな影がしゃがみ込んでくる。
「コウヤくん」
エルメラだった。
彼女は光也の前で膝をつき、目線を合わせて微笑む。
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんだよ。……無理しちゃダメだからね?」
その声音には、まるで姉のような、あるいは母のような、深い慈しみがあった。
光也が何か言おうとしたその瞬間、エルメラの指先がふいに彼の頬に触れ、そっと"つん"と突く。
「……え?」
「んふふ。緊張、取れた?」
ほんの一瞬の戯れ。けれど、それだけで光也の肩から、すっと力が抜けていった。
「……うん、ありがと」
小さな声でそう言うと、エルメラは嬉しそうに立ち上がり、次に立ったのはグレンナだった。
「ラガン家にいりゃ、まぁ安心だろうがな」
腕を組みながら、彼女は光也に視線を向ける。
その口調は、やはりいつものようにぶっきらぼうだった。
「けどよ、暴れて迷惑かけたら──次会った時、回し蹴りだからな」
光也は吹き出しそうになって、それでも笑わないように口元を引き結んだ。
だがその顔には、確かに笑みが浮かんでいた。
「……はい。気をつけます」
グレンナはにやりと笑い、無言でうなずいた。
続いて、ティナが一歩前へ出る。
彼女の視線は、エルメラやグレンナとは異なり、鋭く真剣だった。
「本当にスキルがないなら──無闇に目立ったり、勝手なことをしたりしないこと」
彼女の言葉には、警告にも似た鋭さがある。
だがそれは、恐れさせるためのものではない。
「私の言葉を信じて、大人しくしてなさい。……じゃないと、本当にやばいことになるから」
光也はティナの瞳を正面から見返し、小さくうなずいた。
「……はい。ちゃんと、気をつけます」
その応えが、ようやく「聞く耳を持った少年」の言葉に聞こえたのか、ティナは満足そうに視線を外した。
そして最後に、マリスが光也の前に立った。
彼女は少しだけ視線を落とし、まっすぐな声音で語る。
「守られるのが悔しいなら──」
言葉が、空気を切り裂いた。
「次に会うとき、成長してなさい」
それは命令ではなかった。
突き放すのでも、慰めるのでもない。
ただ、ひとりの人間として、期待をかけるという行為。
光也の中で、何かが音を立てて変わった。
「……はい」
その返事には、幼さの残る声の奥に、かすかに震える決意が宿っていた。
冒険者たちはそれぞれ、ラガン夫妻にもう一度頭を下げ、応接室を後にした。
扉が静かに閉じると、光也はそのまま、扉の方をじっと見つめ続けた。
誰もがそれぞれの言葉で自分を送り出してくれた。
本当に、守ってくれていた。
(……あの人たちみたいになりたい)
胸の奥で、そんな思いが小さく芽を出した。
手を伸ばせば届くかもしれない。
けれど、まだ届かない。
いつか──あの背中に並ぶことができたら。
そう思えたことが、今の彼にとっては何よりも大きかった。
彼の瞳には、感謝と……ほんの少しの寂しさが、静かに揺れていた。
冒険者たちが去った後の応接室には、しんとした静けさが戻っていた。
光也は、その静寂の中にひとり取り残されたような気持ちで、まだ扉の方を見つめていた。
(行っちゃった……)
暖かな気配が遠ざかっていく——その余韻に包まれていた光也の背後から、かすかな足音が聞こえた。
「……部屋、案内する。ついてきて」
振り向くと、そこに立っていたのは、昼間、応接室の扉の隙間から顔を覗かせていた少女——クラリスだった。
彼女の顔には微笑もなく、声もどこか冷たい。
上品に整えられた銀の髪と、涼やかな瞳。
その佇まいには、貴族の子女として育まれた誇りと矜持が滲んでいた。
光也は少しだけ戸惑いながらも、頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
声は小さく、彼の遠慮がにじむ。
だがその礼は丁寧で、言葉も選ばれていた。
クラリスはその姿を見て、ほんのわずかだけ眉を動かし、ふいと目を逸らす。
「礼儀だけは悪くないのね」
誰にも届かぬほどの声で、彼女は呟いた。
それがほんの少しでも、彼に対する肯定の感情だったことを、光也は気づくはずもなかった。
廊下を歩き出すクラリスの背を追うように、光也も静かに続く。
ラガン邸の廊下は広く、陽光が差し込む大きな窓からは手入れの行き届いた庭がちらりと見えた。
だが、その明るさとは裏腹に、二人の間には言葉も交わされず、一定の距離があった。
──カツン、コツン。
革靴と柔らかな靴底、それぞれが奏でる音が交互に響き合う。
まるで会話の代わりに、足音だけがその場を繋いでいるかのようだった。
(なんか……気まずいな)
光也は前を歩くクラリスの背を見つめながら、そっと息を吐いた。
責められているわけでも、嫌われているとも言い切れない。
だが、歓迎されているとも思えない。
──けれど、それも当然だろう。
自分は異世界から来た得体の知れない存在で、しかも王城から逃げ出した身なのだ。
そんな少年が突然、貴族の屋敷に身を寄せるというのは、誰にとっても不安要素以外の何物でもないだろう。
「……クラリスさんは、冒険者の皆さんとは、前から知り合いなんですか?」
思わずそう尋ねようとしたが、声に出す前に、唇を噛んで飲み込んだ。
この沈黙を破るには、まだ勇気が足りなかった。
クラリスの背はすらりと伸びていて、彼女の歩調は整っている。
ただの案内のはずなのに、どこか儀式のような厳かささえ感じられた。
やがて、彼女は立ち止まり、廊下の右手にある扉の前で振り返る。
「ここ。あなたの部屋」
その言葉には、必要以上の感情は含まれていない。だが、突き放すような冷たさもなかった。
光也は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
クラリスは無言でうなずくと、踵を返して去ろうとする。
その背が完全に光也の視界から消えるまで、彼はずっと、ドアの前に立ったまま動けずにいた。
ドアノブに触れる指先に、まだ小さな震えが残っていた。